自由と不確実性(2)

上の「ソーシャルブックマークウェブログ図書館」に速攻レスポンス(笑)
大体同意の模様なので本筋の内容にはコメントで答えます。それよりも

個人的には記事の後段の「自由と不確実性」の辺りにも反応推奨とか思ったりも
しましたが(;´∀`)

・・・いや確かに。そこ凄い面白かったんですよね。で色々考えたんですけどまとまりそうになかったんで寝かせておこうと思ったのだけど・・・。ちょっと書いとこうかなと。もう殆どスレッド感覚(笑)




http://column.chbox.jp/home/jienology/archives/blog/main/2005/06/29_180254.html
この後半でリンクしてる館長のブログの
2log.net
の中で引用してる数学者の森毅の文章。

 「自由には責任が伴う」などと宣う人もあるものだが、責任が伴うのは立場の論理としての権限であって、自由に伴うものは不確実性に由来する危険だけである。「権限に責任が伴い、自由に危険が伴う」と言うべきところ、概念のカテゴリーを混乱させたとしか思えない。そして、危険よりも安全保障を優先させるのが管理の発想であるからには、それは秩序にからめとられざるをえない。
     (森毅『エエカゲンが面白い』(ちくま文庫),筑摩書房,27頁)

は凄い納得。
「自由には責任が伴う」というのは確かに問題ある。
でその後イラクの邦人誘拐事件に絡めて「自己責任」云々の話になるわけですがオレがこれ読んで思ったのは昨今のニート論。ニートは社会の問題か個人の問題かって話に繋がってるなと。
邦人誘拐事件について言えばまずイラク渡航する「自由」を政府が認めていた、という状況がまずある。これをどう考えるか。
必要な対処を怠っていたとするか、危険を承知であえて認めていたのか、まずいのは分かっていたけど自衛隊派遣の名目上(イラクは危険な場所ではない)制限できなかったのか。
詳しくないのでよくは知らないのだけどま、3番目が適当なのかもしれない。でもここではそんな政治的な話はどうでもよいので前の二つについて。
「危険を承知であえて認めていた」というのが実は自己責任論での前提になっているのだと思う。日本は自由主義の国だから最大限制限しない事が推奨される。つまり政府(国家)がまず「自由」を選択していた、というわけだ。その時点で国民の側に行くか行かないかを決める権限が移るので上の森氏がいうようにそこに責任が生ずる事になる。
がこの自己責任論を政府(国家)の側が主張するのはどう考えたっておかしい。最初に選択、決定権があるのは政府でありその結果としてあのような問題になったのだからつまりは政府が「必要な対処を怠っていた」のだ。
要するに自己責任論を政治家がいう事は間違っているかどうか以前に物凄く恥ずかしい事なのだとオレは思う。それは自分には権限がないと言っているに等しい。権力者が言うべきことじゃない、というのが率直な感想。
逆に我々が我々の仲間に対して「自分のケツは自分で拭け」というのは自然な事だとも言える。少なくともその人がより自由でありたいと思っているのなら。


ニートについてもほぼ同じ事が言える。
必要な対処を怠っていたのか、危険を承知であえて認めていたのか。
ニートが個人の問題であったとしても権力の側が甘えだなんだと文句をいうのは恥ずかしい事だ。「危険を承知であえて認めていた」のならやはりそれを決定、選択する権限を持つものとしての責任は生ずる。がゆえに結局は「必要な対処を怠っていた」のだ。
がやはり我々が我々の仲間に対して「自分のケツは自分で拭け」というならそれは自然な事だ。少なくともその人がより自由でありたいと思っているのなら。




管理を選択しそれに反するなら分かりやすい。
権力が「自由」を選択すると物凄いややこしい。
はっきりしているのは
自己責任を主張する権力者には矜持がない事。
そして
権力者に「自由」を保障してもらわなければそれがないと思っている自由主義者に覚悟がない事。
それが下らない。
そんな感じ。
敬具。