フローな話(3)〜情報リテラシーから実体リテラシーへ、メディアリテラシーから人間リテラシーへ〜

ブログの記事は「情報」ではない - ぶろしき

>情報は固定化された事象(『人間科学』より)


この定義で考えるとブログの記事はそのままでは「情報」足りえない。コメントやトラバもそうだが最も重要なのはブログの記事は書き手によって常に修正が可能である、という点である。といってもこれは何もブログに限った話でなくネットの世界に存在する大半のものは固定化しておらず常に内容自体が変化する可能性を秘めている。従ってこれらのものは「情報」というよりは養老先生の言う「実体」と言った方が正確だと思われる。子曰く


>実体は常に変化する固定化されていない事象(同上)

これがネット、その中でも特にブログを考える上での前提になっているオレの解釈。養老先生の情報に対する定義に基づいた考え方。それは情報ではなく「実体」として捉えるのが的確、だと思っている。




フローな話(2) - ぶろしき
http://d.hatena.ne.jp/yukatti/20050910/1126326567
という事でこの流れの続きです。

ということで、わたしとしては、特に意義や異論といったものはなく、「その通りだな」と思いながら拝読しました。

いやオレも書いてて釈迦に説法かな〜と思ってました。
あの辺はまぁ分かってると思ったんですけど、要するにあれはオレにとって予習だったのです。ネット歴の長い人ほどあーいう議論の繰り返し、同じ話の繰り返しに遭遇することが多く、それに対して何かつまんないな〜と思ってしまいがちなんじゃないかと。そういう風に感じてる人を多く見かけもする。
でオレの方はまだまだネット歴が浅いのでそういう経験が殆どない。でも今後長くなってくるにつれて当然そういう問題が発生してくるわけなので、その時の為に予め予防線を引いておこうと。その時つまんないな〜と思ってしまうのはそれこそつまんないので、何とか面白い見方なり感情の持って行き方なりを今のうちに考えておこうと思ったのです。

読み手としては「どういうことが書かれているか」「誰がどういうことを書いているか」のほかに、「誰に向けてその情報を書いているか」や「読み手・書き手を取り巻く環境の変化」も頭に入れて読み、判断する必要がある。
……といったようなこと

なのであれはまさかそんな事を読み手に強いているわけでなくあくまで面白くないな〜と思うよりはそうした別な視点で見れば面白く読めるのじゃないかと思ってるだけなんです。
でこの辺のすれ違いというか感じ方の違いが実はかなり重要で、そこがホントはオレが書きたいこと。一見近いように見えて前提にしてるものが違うのだということ。そこについてもう少し書いてみたいと思います。






http://d.hatena.ne.jp/yukatti/20050726/p1
上のyukattiさんの記事でリンクされているこちらの記事。

情報リテラシーを向上させたい、向上させるにはどうしたらよいか。個人的にはわりにそれらを強く意識しているところがある。

  • 情報に騙されないように生きるためにはどうしたらよいかということ
  • くだらない情報を自分が発信しないためにはどうしたらよいかということ

2個目はいいとしても一個目の
>情報に騙されないように生きるためにはどうしたらよいかということ
これに異議あり。いやこれはyukattiさんと違うというよりいわゆる情報リテラシーメディアリテラシーをいう殆どの人と多分違うところ。
これがもし従来のマスメディアに対するものであるならまったく異論はない。”正しい”見方なのだろうと思う。
だがこれがネット、特にブログに対するアプローチならこれが適切なものだとは思えない。
つまりこれはあくまで内容自体を変えることのできない「情報」に対するアプローチではあっても、内容自体を変化させられるもの、書き手のみならず読み手によってもそれが行えるブログという極めてフロー性の高い「実体」に対するアプローチとしては、極端に言えば”間違い”だと考えている。
一番最初に書いたようにオレはブログにおけるそれを「実体」と捉えている。そしてこの事の意味はまだよく理解されていないな〜と感じてもいる。そこで例えとしたいのがブログ界隈で話題になったホワイトバンドに対する言及。


http://hottokitai.jp/
多分この記事が元になってホワイトバンドという運動?について色々なブログで語られていた。凄いブックマークされているのでかなり注目もされていたのだと思う。
はてなブックマーク
ここでのアプローチがまさに情報リテラシーメディアリテラシー的なものを前提にいかに騙されないか、どういう意図によって行われているのかを徹底的に疑る、そういう視点で書かれているものが多かった。

この事に対するこの一連の議論が非常に興味深い。かなり要約してざっくりいうと、

  • 結局疑るのはいいけど結果何もしないことになるだけで面白くなくない?
  • いやでもずっと(いわゆるメディアに)騙されてきた事に対する反発が・・・
  • まぁ騙される側から騙す側に回るしかないんじゃない?
  • いやそれがイヤだからブログやってるんです!

といった感じ。どれもそれぞれにまさしくその通りだな〜とは思った。心情的には『ニセモノの良心』の孝好さんの意見に近い。
ただここで前提にしてるのはやはり動かしようのない固定化した「情報」、従来のいわゆるメディアに対する対し方、であるようにも感じている。
だがオレにはこのホワイトバンドとそれに対するツッコミというのは「嘘から出たまこと」という経緯になってるように見える。仮に胴元が儲かるだけで寄付にはなっていなくても、その真意がどこにあったとしても、少なくともそれが建前としている「世界の貧困問題をみんなもっと考えよう」という目的は達している。胴元が怪しかったがゆえにそれに対するツッコミ、更にそれに対する対案はあるのかというツッコミ、援助の実態、まぁ凄いみんな色々考え読んだりしたのは間違いない。オレなんて全然興味なかったけどこれで色々知ったこととか多い・・・。


で要するにこれは「嘘から出たまこと」なのであって、これがブログにおける本来のあり方、目指している方向なのではないかと思うのである。
ブログは書き手によって常に内容の修正、変更が可能だが同時に読み手によってもコメント&トラバ&ブクマなどで追加修正意味づけの変更が可能である。
がゆえにそこで読み手に問われているのはそれが正しいかどうか、間違っているかどうか、どんな意図で書かれているのか、そういったこと以上に「あなたはそれに関わることでそれをどう変えたいのか?」ではないかと思うのだ。それが常に問われているはず、なんじゃないかと。


無価値なものを価値あるものへ
無意味なものを意味あるものへ
ネガをポジへ
嘘を真へ


これが読み手によって内容が変えられること、固定化した情報ではない実体としてのブログ、への適切なアプローチだと考える。
確かに情報リテラシーも大事だし必要だと思う。だがそこに留まっていては面白くない。それはあらゆるものを常に疑い続けることを教えるが今いる場所から一歩も動くことはできない。それじゃまるでひきこもりだ。
オレから見ると情報リテラシーはもう十分過ぎるほどあるように見える。むしろ今必要とされているのは、そしてより重要なのは実体リテラシーの方じゃないかと思う。あるいはその究極としての人間リテラシー


情報リテラシーから実体リテラシー
メディアリテラシーから人間リテラシー


これがいわゆる付きのメディア、従来のマスメディアからネット、ブログへの変化の本質なのだと思う。常に変化し続ける実体としての生きているメディアへの最適なアプローチ、ではないかと。
だからこそ例えばあるものを無価値であるとか無意味であるとか、あるいは同じ話の繰り返しであるとかつまらないとか*1、そういう言説に引っ掛かる。というか、それを言ったら負けかなとオレは思ってる。読み手として。そして純粋な読み手、情報を一方的に消費するだけではないブロガーとして。いくらでもそれは変えられるはず、じゃないかと。
そしてホワイトバンドに関してもこれを真にしてしまうところまで、あと一歩じゃないかな〜と思うのだ。それぞれが「あなたはそれをどうしたいのか?」という事に答えた上でそれを取りまとめて何らかの合意が形成されるなら、例えば寄付でないことが問題なら寄付にすることを要求するとか。(まぁそう単純でもないようだけども)
いずれにせよ今一歩踏み込めてない気がするのは「それがどういうものか」は理解できるのだけど「あなたはどうしたいのか?」がイマイチ見えてこないことかなと。*2
実体は変わり続ける、あるいは常に変わることに開かれているものである以上、それに自分が関わるなら積極的に意義を見出していく、そういう方向に行かなきゃやっぱり面白くないと思う。
でこの実体に対するアプローチとは最終的には人間リテラシー、要するに「人を見る目」に行き着くのだとも思ってる。昨日言ってたことと今日言っていることが違う、今日した約束を次の日守らない。そういう常に変わり続ける一定ではない実体としての人間。それをどうすれば「信頼」できるのか、多分そういうところに行き着くんじゃないかな〜とも思っている。


ただこの実体リテラシーの考え方は上のyukattiさんの記事の脚注

情報リテラシーの基本的な教育としては学生時代にうけたかな……「自分が書いた物、話すことは自分の手から離れた瞬間からいわば自分の手に負えないもの、コントロール出来るものではなくなる、という「恐怖」*」を植え付けられたのもそのころ。

この事と表裏ではある。つまりオレは書き手の意図するものである必要は必ずしもない、と思っていてそれは誤読を認めている、以上に積極的にしていこうとさえ思ってたりする。そして誤読された人にそれを面白いと思わせる事が出来たら勝ちかな、とも。
だがこれは当然書き手が意図しない方向に勝手に広まってしまうことでもあるし、そして上の話の逆


価値あるものを無価値なものへ
意味あるものを無意味なものへ
ポジをネガへ
真を嘘へ


こういう方向も当然にして含んでいる事には注意が必要だと思う。というより結局これらは究極的には主観に過ぎないと思われるので、あくまで「自分にとって」面白いと思う方向なわけですけどね。




という事で以上のような内容がフローな話(2)の最後の部分

既にそれを「知って」いることで直接的に価値は見出せなくても、逆に知っていることでその情報の別な側面、切り口を見つけられる可能性があるはずでそのことによって書き手も想定していない別な「価値」を発見しうる、あるいはオレはしたいな〜と。
そう思っている次第です。

ここに込められていたりしますw






◆関連記事
変化するブログ、固定化している新聞 - ぶろしき
固定点としての既存メディア - ぶろしき

*1:と言っても既にそれはここでされていた話だ、と指摘すること自体は十分意義があるとも思っている。ただそれによってその記事が無価値になるのではないということ。意味付けが変わるだけだという事が言いたいわけです

*2:ちなみにオレは自分で稼いでいないひきこもりなので寄付などできる身分じゃないと思ってる。のでこの件について特にいうことはないです。投げ銭についてもポイントをお金で買うつもりはなくあくまで投げ銭された分を投げ銭に回そうと思っているのではてなポイントはオレにとってお金ではないし投げ銭ももちろん寄付ではない。けどひきこもりに投げ銭されるのは相手のプライドを傷つける恐れがあるので基本匿名でやることにはしてます