サブアカウント問題、複数の顔を持つことはホントに良いことか

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はてなサブアカウント問題。というか複数の顔を持つことの是非について。
上のリンク先はサブアカウントはてなブックマークの絡んだ話。特に三つ目のyukattiさんの記事では元々のサブアカウント(複数のID)を持てるようになった経緯も説明されていて分かりやすい・・・けどややこしい。このややこしさはやはりサブアカウントというものがそもそも問題であるように思った。ので今更ながらサブアカウントの是非について考えてみた。もう遅いというか覆らない可能性大ですけど一応書いておきます。




これを説明する上でまず前提にしたいのが毎度お馴染み『ぼくたちの洗脳社会』の次の箇所。
http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/bokusen/senno4.html

○分割される個人
これからは価値観の増加につれて、一つの価値観を共有するグループがいくつも生まれてきます。それは犬の散歩仲間だったり、カルチャーセンター仲間だったり、ある団体のボランティアスタッフの仲間だったり様々です。
パソコンネットの発達によって、ネット上のサークルという形を取る場合も多いでしょう。ネットで知り合った人同士、たまにどこかで待ち合わせて実際に話す事もあるでしょう。
逆にかつてボランティア仲間だった人たちが、ネット上で交流を続けたり、ということもあると思います。どんな形を取るにせよ、一つのグループが一つの価値観やセンスを共有するためのものであることに変わりありません。そのグループ内でしか通じない話、そのグループ内でしかできない話をする、というのがグループの目的となり、暗黙の了解となるでしょう。
そういった価値観を複数持ち、そういったグループに複数所属することがこれからの生活スタイルの基本形です。
そうなると人生の大きなポイントは、「どんな」価値観を「どれくらいづつ」生活の中に取り入れるか、「どんな」グループに「どの程度の深さ」で所属するかになります。

これはこの本の内容的にも非常に重要なポイントであると思っている。個人の中で複数の異なった価値観をコーディネートする事、は時代の要請として仕方のないこと。『価値観の増加につれて、一つの価値観を共有するグループがいくつも生まれて』きてしまうので人は複数の異なったグループに同時に所属せざるをえない。詳細についてはリンク先を読んでもらうとしてとりあえずここではこれを前提にした上で次のjkondoさんの記事を考えてみます。


一人で複数の顔を持つ - jkondoのはてなブログ

匿名にすると人の行動が無責任になるし、いざ違法行為などが起こっても誰だか分からないんじゃないか、と言った危惧があるにせよ、それと同等かそれ以上に、一人で複数の顔を持つ事ができるからこそ表現できることがあり、演じられる役があるというインターネットの面白さを忘れてはいけないということを、改めて学んだ気がします。

今回のアカウント追加においても、はてな内ではどのサブアカウントがどのメインアカウントと紐付いているかはもちろんシステム上管理をしていますが、この情報は重要なプライバシー情報であると考え、違反行為の捜査などではない通常業務や単なる興味などで社内からこうした情報が参照されないよう、社内の徹底を図って行きたいと思います。

はてな内のアカウントは、そのアカウントによって行われた行動(質問履歴や日記の履歴、アンテナやブックマーク)が誰からも閲覧可能であると言う意味でアカウント内での自己同一性を保ちながら、一方で、他のアカウントを持ち別の人格として振舞える自由や、実世界の存在や他の人格と結び付けられない自由を適切に保障していきたいと考えています。

これがおおよそサブアカウントが必要とされた理由。


>一人で複数の顔を持つ事ができるからこそ表現できることがあり、演じられる役があるというインターネットの面白さ
>他のアカウントを持ち別の人格として振舞える自由や、実世界の存在や他の人格と結び付けられない自由を適切に保障


一見すると、というか基本的には岡田斗司夫の考察と同じである。この理由の部分についてはまったく異論がない。いや個人的にはそれは勧めるものでなくあくまで仕方の無いこと、という感覚なのだけど基本的にはネット上でもそれぞれ異なった価値観の場がたくさんあって人は複数に所属する、あるいはそれぞれの場で別人のように参加することは出来る。しそれがネットの面白さなのかもしれない。
だがここに重要な問題がある。それはこの話が「はてな内における」複数の顔、IDとしてのサブアカウントの話である点。
どういうことかというと上の岡田斗司夫の話はあくまで複数の異なった価値観の場それぞれで場合によっては別人格になりうる、それはしょうがないこと、という話であってある一つの価値観のグループの中である人が複数の顔を持つことについては何も言っていない。まぁ何も言っていないので確かな事はいえないがオレの考えではそれはおそらく”不当”なのだと思う。
例えば。
ある人が2ちゃんねるとブログとSNSでそれぞれ別人として振舞っていてそれが判明したとしてもそれ自体が非難されることはない。(ってか2ちゃんに顔はないけども)いくつかのブログを運営していてそれぞれ別人として紐付けしていなくてもそれも非難はまずされない。非難されるのは「自作自演」である。この自作自演というのが一つのキーワードであるようだ。
2ちゃんねるという匿名の世界においても一つのスレッド内で複数の人格を装うのは恥ずかしいこととされている。装うことは可能ではあるがばれると笑われる。ブログにおいても自分のブログのコメント欄で別人として振舞うことはやはりまずい。場が違ってもそれぞれで別人を装い自己言及するのもやっぱり自作自演。ネットにおいて自作自演は忌み嫌われている、と考えて良いようだ。(まぁネットでなくても、だろうけど)
つまり。
それぞれ異なった価値観のグループや場それぞれで別人格を持つことは認められるが、ある一つの価値観のグループや場で複数の人格を持ってはいけないという事。
まぁこれは当たり前といえば当たり前なんで説明の必要はないかもだけど・・・ってか当たり前過ぎて説明するのが何だか難しいのでなぜかというのはおいとくけども、多分これに異論はないと思う。
でここまでくればサブアカウントの問題のポイントは明白。

  1. はてなはそれぞれ異なった価値観のグループが無関係に点在しているところなのか
  2. それともある一つの大きな価値観のグループとしての「場」なのか

のどちらなのかということ。
1なら問題ないがもし2であるならサブアカウントという複数の別な顔を持つことはかなり問題あり。そしてオレは2である要素が大きい、あるいは今後大きくなっていくと予想しているのでサブアカウントには反対、という事になる。ホント今更だけどもw何となく引っ掛かるものは前からあってまぁこういうことなんだろうと思う。
でその一つの大きな価値観のグループになっていくと予想する理由というのがはてなブックマークによって、だったりする。
ソーシャルブックマークこそが(市民)参加型ジャーナリズムである論
の中のこの辺で書いた。はてなユーザーの間での情報の共有度ははてなブックマークによってどんどん増していき、そのことによって共同体化の方向へ。別な言葉で言えばはてな内の「世間」がどんどん狭くなっていくという事。そして特定の共有された情報を前提にしたコミュニケーションとはある一つの価値観の上に乗っかっている、と言える。でこの傾向がどんどん強まっていけばいくほどその中で別人として振舞っていることの問題もどんどん大きくなっていく、と予想できる。
そもそも。
はてな内で複数の人格など演じなくてもネット上にはいくらでも場の選択肢はある。2ちゃんやSNSもそうだし、複数のブログを持つのにも複数のブログサービスがいくらでもあるのだから。そこであえてはてなで複数持てるようにすることにどれだけの意味があるのかは謎。
ネットは不信が前提なのだと思う。ネット上のコミュニケーションにおいて相手が男か女か、年齢はいくつか、何をしているのか、明示されていようがいまいがホントのところは殆どの場合分からない。その中で信頼のおけるコミュニティをある程度でも作ろうというならその中で一人の人間が複数の人格を持つことは不信や疑惑や混乱の元にしかならないんじゃないかなと思う。
という事で一応の結論。

  • ネット上のコミュニティにおいては異なる価値観のグループや場それぞれにおいて別の人格であっても構わないが、同じ価値観のグループや場においては一つの人格で統一するのが望ましい

といった感じ。とこう書いても何だかやっぱり当たり前過ぎる気がするけどwそういうわけでとりあえず今のとこ納得できるのはサブアカウントは複数の人格を持つ為でなくはてなの便利なサービスを複数使うため、という理由。これだけ。で少なくとも建て前としては複数の人格を持つことを認めてはいけないのじゃないかなと思った。信頼のおけるコミュニティにしようというならば・・・と一先ずはそんな感じ。