ひきこもりはプライドが高いのか?

2005-10-18
2005-10-21
2005-10-28


直接関係するかどうかは謎、だけどひきこもりのプライドの高さについて思うところと疑問を少々。


まずここでいう「プライド」が何を意味しているのか、もしそれが自尊心のことであるとすると意味はおおよそ二つあるようだ。下はgoo辞書より。

じそん-しん 2 【自尊心】


(1)自分を優秀な者だと思う気持ち。尊大に構える心。プライド。
「―が強い」
(2)自分の品位を保とうとする心。プライド。
「そんなことは―が許さない」

上記の記事で書かれている意味はほぼ(1)に関するものなのでここでは(2)について考えてみる。
まず全ての人間にはなんらかの心の拠り所がある。それがない人間はいないといっていい。
学歴や職業、あるいはステータスと呼ばれるようなあらゆるもの。
それらが場合によって「プライド」になっている。
例えば大学の教授だから偉いのだ、敬うべきだ、なら(1)のプライドであり大学の教授だから痴漢はしない、なら(2)のプライドであると考えられる。これを(1)=外部規定(2)=内部規定と例えばいうことにする。
で大体「普通の」人はこういうプライドを適当に様々なものに分散してその拠り所としている。(1)と(2)も繋がっているのが普通だと思う。
がひきこもりになってしまったものはそもそもプライドの拠り所とすべき外部規定を殆ど持っていないことが多い。あるいはそもそも外部規定にあまり価値を置いていない、どちらかというと内部規定の強い人間がひきこもりになりがち、とも言えるかもしれない。いずれにせよそういう事情があって普通の人より内部規定が強くなる傾向があるといえると思う。
仮に一人の人のプライドと呼びうるものの総量が同じだとして、それをどこにどの程度分け与えているかが違うだけだとする。Aが10のものに分け与えBがたった一つに分け与えているならAから見るとBはとてもプライドが高く見える。
「高い」という表現が多分ポイント。それはプライドをより多く持っていることを意味しない。むしろプライドの拠り所とすべきものが少ない、と解釈すべきだと思う。
更にひきこもりにおいてそれは外部には殆どない、という事情もある。

  • 私は○○だから××はしない。

という風に(1)と(2)が繋がっていない、(1)がない場合が多く「私は××はしない」「××をしないのが私だ」というような内部規定になる傾向があるのかもしれない。こういう内部規定をあるいは「倫理」と呼ぶのかもしれないとも思う。
ひきこもりはプライドが高い、というとあれなのでひきこもりは倫理的である、言えないかと。もちろんこれは良いとか悪いとかの問題ではない。純粋な「内部規定」とは一般的な正しさとは無関係なものなので要はプライドの形態が違うという話。
ここにある種の誤解があると思うのは場合によって普通の人がひきこもりにプライドの高さを感じるのとおそらくまったく同じ理由によってひきこもりのオレから見ると「普通の」人にプライドの高さを感じることが結構あるということ。オレがまったくプライドなどにしていないポイントに強く持っているわけだから。同じところに同じようにプライドを持っている人同士ではそれは見えない、というだけの話かもしれないということ。
一応これは指摘しておきたいと思った。




んでこれとは別に一つ疑問がある。
pikarrrさんの最初の記事の文章。

ニーチェは「神は死んだ」と言った。神とはなにか。大いなる意志である。キミの特別性、なんのために生きているのか、生きる意味を保証してくれる存在だ。どんなにたくさんの人がいても、神は全能であるから、一人一人に価値を見いだし、見守ってくれている。神がいるかぎり、キミは特別であり、生きる意味があった。

これは明らかに西洋的な一神教的な「神」の概念に基づくものでそしてそれが「死んだ」から「日本に」ひきこもりが生まれたという展開をするわけだけどこれをホントに前提にしてしまっていいのだろうか?という疑問。
いったいいつ日本でそんな神概念を基に社会、あるいは個人が成立していたのかという。そしてそれが「死んだ」からといってなぜ西洋でなく日本にひきこもりが生まれたのか。
要するにニーチェだかが神を殺したことと日本におけるひきこもりに直接的因果があるとはオレにはとても思えないのだが、これでホントに納得できるんだろうか?
例えばアメリカだかでhikikomoriを紹介する時そこでは東洋的な(禅とか仏教とか)現象、ちょっと心情的には理解し難い異質なものとして紹介されているらしいが、そこで例えば彼らに対して

しかし苦しみはそれだけではない。フロイトそしてラカンはエディプスの三角形を見いだす。キミは生まれたとき、全能感をもって生まれる、この世界はすべてキミのためにあるという錯覚の中で生まれてくる。現代はそれをさらに物質的な豊かさが支え、キミには無限の可能性がある、夢を持て、と教えられる。

しかし少しずつ、ニーチェ的な「永久回帰」の世界へ投げ出されて、ギャップが口を広げていく。多くの引きこもりは、学校のいじめをきっかけに引きこもりと言われるが、そのような特別なきっかけがなくとも、社会に入っていく中で、自分が特別でないこと、偶然の存在であることに気づいていくのである。

という説明で彼らは納得するのだろうか?それによって心情的に理解できるようになるのだろうか?
まぁオレには確かなことは分からないがどうもそうは思えない。もっとそこには深い断絶があるような気がする。そしてそうであるとすれば「ニーチェが神を殺したのでひきこもりが生まれた」というのは「風が吹けば桶屋が儲かる」程度の説得力しかないと思うのだがどうか。これを直接の因果として説明するのは無理があるんじゃないかという疑問。




でもう一つ、ちょっとどうでもいいかもしれないツッコミ。
コメント欄でのfer-matさんとの話の中ででてきた


>テレビでみる引きこもりはもはや「病人」のようです


これは余計かなと思った。っていうのはpikarrrさんはその前のとこで


2ちゃんねるにいると多くの引きこもりさんたちとコンタクトする機会があります。


とおっしゃっているのだから。
何がいいたいかというと例えばかつて宅八郎であるとか宮崎事件などがメディアを賑わしていた時、そこでそれを見ていた人が『テレビでみるオタクはもはや「病人」のようです』と言ったとしてもそれは仕方のないことかもしれないということ。もしその人が個人的にオタクと交流がないのならば、というカッコつきで。それならその責任はその人ではなくメディアの側にある、ということができる。
メディアに乗る、ということの意味は常にそういうことなのだと思う。異常であったり過剰であったりしなければそもそもネタにならない。だからそこでは逆にこういうこともできるかもしれないのだ。「テレビで見る普通の人はもはや「病人」のようです」と。
そういうわけだから個人的に交流がありそういう体験があるのだったら『テレビでみる引きこもりはもはや「病人」のようです』というのはちょっと安易なんじゃないかと思った。
もっともそこでコンタクトしている2ちゃんねるのひきこもりもやっぱり病人だと思っているなら話は別だけども。
あるいはこうしてブログでコンタクトするひきこもりもそういう感想なら仕方ないですけどもw