(5)ブログ、セケン、コミュニケーション

  • 会話より文章の方が得意

なぜこの質問への答えがデジタル・ディバイドの二つ目の境目になるのか。なぜ会話の得意な人が「ネットをリアルの足場としても使える人」、文章の方が得意だと答える人が「ネットで完結せざるを得ない人」になるのか。
という辺りイマイチうまく書けてないので補足。誰からもつっこまれてないけど勝手に補足。前回の続き。




非コミュ」という言葉がある。id:akoginaさん辺りが提唱したらしい概念でキーワードまで作られている。

所謂「コミュニケーション能力」において劣っており、他人とうまく「コミュニケーション」がとれないとされた人。またそのために、コミュニケーションの意欲が減衰し、所謂「コミュニケーション」から退却している人。「協働」「フレキシビリティ」「情動」「差異」が重視されるいわゆる「ポストフォーディズム(情報化社会)」化の社会において不利になるとされる。

正直これを見て違うな〜と思ってた。同じようなことを感じている人が結構いたような気がするのだけど忘れてしまったので自分で書いてみる。「非コミュ」の極北に位置すると思われるひきこもりのオレが。
まずざっくりとした見なしとして、非コミュおよび非モテというのは「ニート」という概念がでてきたからこそ生まれてきたのだろうな、という読み。元々「ニート」はひきこもりから労働問題、経済的な問題という側面を部分的に切り出すことによって成立した概念、であると見る。がゆえにそこで本来それが持っていたはずの問題のいくつかが無視された。その無視された部分に名付けられたのが非モテであり非コミュである。おおざっぱではあるけどそういう経緯を考えている。
【ひきこもり】−【ニート】=【非モテ】【非コミュ
ひきこもりには、ニート(労働)非モテ(恋愛)非コミュ(コミュニケーション)の三つの問題はデフォルトである。があえて言えば特に重要でより本質的な問題は非コミュ、つまりコミュニケーションの問題なのだと思っている。
非コミュの定義になるのだけど。
>所謂「コミュニケーション能力」において劣っており、他人とうまく「コミュニケーション」がとれない
から、
>コミュニケーションの意欲が減衰
となっているが、まず「コミュニケーション能力」という言葉への違和感があるのだけどこれについては例えばhttp://araiken.blog8.fc2.com/blog-entry-232.htmlこちらのエントリなどでも突っ込まれているので省く。ここで問題としたいのはこれは話が逆なのではないのか、ということ。つまり前提としてまず「コミュニケーションの意欲が減衰」しているからこそ「コミュニケーション能力において劣って」しまう、あるいはそう見なされるのではないのかという話。




■コミュニケーションの動機
真性引き篭もり : 働きアリが働く理由と、ニートが働かない理由。
これは真性引き篭もりの書いた文章の中で、なんて枠はいらなくて今まで読んだブログエントリの中でオレが最も感銘を受けたもの。それまでなんとなくうっすらとあった問題意識が初めてはっきりと明確に言語化された、ように感じた。もうすぐにでも絡みたかったのだけど、どうも先を行き過ぎていたようで中々エントリにならなかったんだけどようやく一本書けるw
ともかく。
これのどこが優れているのか。これは働きアリを例にしてニート=労働問題について書いてるものなのだけど、いくつか主な部分を引用。

前者と後者の違いは何か。
それは、所属するグループの存在である。


ジョロウグモは所属するグループが無いから、他者の為に巣をはらない。
しかし、所属するグループがあるアリや蜂、象やライオンは違う。


働きアリと呼ばれる生殖機能を持たない雌のアリは所属するグループの為に働く。
働き蜂と呼ばれる雌の蜂は所属するグループの為に働き、刺し死ぬ。
大人の象は所属するグループの子象を守るし、雌ライオンは所属するグループの雄の為に狩りをする。

過剰に働く理由。
それは、所属するグループの為である。働きアリが運ぶのも、働き蜂が刺し死ぬのも、プレイリードッグが泣き喚くのも所属するグループの為である。

では、人間が働く理由はどうであろうか。
同じく、所属するグループに貢献する為である。

人間が「とりあえず必要」である以上の労働を行うのは、それが所属するグループの利益になるからである。働きアリが働くのと同じ理由であり、他の霊長類どころか他の生物種との区別に使える基準とはなり得ない。

人類の始祖たちは「誰か」を所属するグループであると認識し、その「誰か」に必要な物をあげる事が所属するグループの利益になると判断したから「グループの為の過剰な労働」を行ったのである。

NEETと労働者との違い。
それは、「所属するグループ」を認識できているか認識出来ていないかの違いである。

労働者は「貢献価値の見いだせるグループに所属している」人たちであり、
NEETは「貢献価値の見いだせるグループに所属していない」人たちである。

どうだろうか。まったくその通りであるとオレは思う。「貢献価値の見いだせるグループに所属している」か否か。問題の本質はここにあるというのにまったく同感。
が。
この分析が面白いのはそれだけではなくて、これが実はニート=労働問題のみならず非モテ=恋愛、非コミュ=コミュニケーションの問題をもまとめて説明しうるところだということに改めて気付いた。
同じく働きアリを例に取る。
働きアリが働くのは所属するグループの為だが、では何をすることがグループにとっての利益になるのかはどうやって知るのか。もちろん?コミュニケーションによってだ。そう、アリだってコミュニケーションをしている。「唾液」や「におい」によって。同じグループに所属する同士、あるいは女王アリからの指令を受けるにしても、この「唾液」や「におい」によるコミュニケーションが盛んに行われている。
ではコミュニケーションは何の為にしているのか。所属するグループの為に働く為だ。何の為に働くのか。所属するグループに貢献価値があると信じられているからだ。(アリの場合は本能的に)


というようにコミュニケーションの動機を説明できるわけだけど、この話がいかに優れているかは上記の真性引き篭もりのエントリの「労働」や「働く」→「コミュニケーション」に、「ニート」→「非コミュ」「ひきこもり」などに置換してもほぼ矛盾なく文章が成立することでも分かるのでぜひ既に読んでいる人も改めて読んで欲しかったりする。(たくさんブクマされてるので既に読んでる人は多いと思うけど)
そういうわけで非コミュの定義としては、

  • 所属するグループに貢献価値が認められず、コミュニケーションへの意欲が減退しているがゆえに、「コミュニケーション能力」が劣っている、あるいはそう見なされること

という方が正確であると思う。





■コミュニケーションの違い
とそこで最初の疑問に戻る。
なぜ「会話より文章の方が得意」という質問が重要なのか。これを単に「話し言葉」と「書き言葉」の違い、と捉えると間違う。これがブロガーになされた質問であるからだ。では一般的なコミュニケーション、ここでは特に会話とブログによるそれの違いとはなんだろうか?
以下のCKさんの記事でその辺が分かりやすく説明されてる。
共感者を掴まえろ! - 不特定多数に向けたコミュニケーションの威力 | デジモノに埋もれる日々

ここでは理解を簡単にするために、コミュニケーションをキャッチボール に例えて考えてみましょう。

 
周囲にいる人、つまり既に何かしらの関係が出来上がっている人に対して、自らの主張をぶつけて理解してもらうことを考えた場合、ボール(主張)を投げるときには、すでにキャッチボールの 相手は決まっています。

 
ところが、ネットに於けるリアクション主導型コミュニケーションでは、不特定多数に向かってボールを投げます。ボールを投げた時点では、


誰がキャッチボールの相手になるのかは決まっていない


のです。ボールは、100人だか1000人だか、人数も決まっていないような不特定多数を目がけて、当て所なく投げらることになります。

まさしくここが重要な違い。もう言わんとしてることは大体分かったと思うけども、「会話より文章の方が得意」という質問にブロガーがNoと答えること、会話によるコミュニケーションの方が得意、ということは
>周囲にいる人、つまり既に何かしらの関係が出来上がっている人に対して、自らの主張をぶつけて理解してもらう
ことに他ならない。話の前提を共有する、そして相当程度に価値観を同じくする「所属グループ」があっての話、なのである。更にいうと言いたい事が言いえるだけでなくそれがその相手にきっちり伝わっていなければ(と信じられていなければ)「会話」は成立しない。
そして会話が得意と言いえるほどコミュニケーションが密であることのその動機、欲求の基になっているのがその所属するグループに貢献価値を大きく認めている、あるいはそれが信じられていることにある、というのは働きアリの例で言ったとおり。
では会話より文章、ここでは「ブログ」なのだけどそれが得意という人は?言わずもがな、ではないかと思う。要するに上記の質問は、貢献価値を相当程度に認めているグループに所属しているか否かを問うているのだ。





■要するに世間
人における「所属するグループ」は動物におけるそれよりも重層的でより複雑である。

NEETではない多くの労働者にとって、労働動機は1つではない。
「人類」「宗教」「国」「民族」「両親」「兄弟」「配偶者」「養育者」。
「会社」「社長」「職場」「上司」「同期」「部下」。
「友達」「幼なじみ」「同好の士」。
といったように、一般の労働者は多種多様なグループに所属している。

こういう複合的に重なり合うグループの総体とかそこで働く力学、を日本では「世間」というのだと思ってる。
これら既存の世間(世間1.0)への貢献価値が一般に信じられなくなってきた、というところにニートとかひきこもりとか場合によっては非モテとかの問題があるのだという。

ニートが既に所属し、「低価値」あるいは「無価値」だと判断しているグループを「愛すべき価値のあるものだ」と認識し直させてやればよいのである。

と一応書いているけどもこっちの可能性はやはり薄いと見てるようでオレもそんな感じ。
では・・・というとこで今考えているのがつまり「世間2.0」なんだなという。それはニートだろうがひきこもりだろうが貢献価値を信じられる、新しい機軸によるそしてネットでのみ成立しうる世間のかたち。力学。2ちゃんのように名無しでなくSNSのように閉じておらず、CKさんいうところの「リアクション主導型コミュニケーション」読み手の世間を特定しないブログによるそれに何か大きな可能性があるんではないかと。そういうものをイメージしているのだ。




■ってことで結論
一言でいうとジャパンブロガーカンファレンスは嫌だな〜とw
ブロガーのブロガーによる、というならせめて建前でも「会話より文章の方が得意」という人にブログ界を主導して欲しいし、それがブログの特性を踏まえた上では重要なポイントだろうと。
でリアル化=実名化、という文脈で一部の特殊な人でなく一般の普通の人が実名化するのを仮定した場合、そこで「リテラシを身に着けた自立した個人」要するに「市民」のようなものを想定しているのだとしたらそれは違う、とオレは見てる。日本においてそれはリアルの世間をそのまま引きずって、世間ごとネットの世界に引っ越してくる、ということになるんじゃないだろうかと。もしそうならそれはちっとも面白くない。


「誰がブログを殺すのか?」


ってことで終わり。