「松永英明さんへインタビュー」について

松永英明さんへインタビュー ①: Grip Blog <Archives>

松永さんへのジャーナリスト志望の泉さん、フリージャーナリストの佐々木俊尚さん、元記者のR30さんによるインタビュー記事。五回分。
何かあるみたいな予告はあったんだけどこういう形だったのは結構意外。俺はてっきりkanos・・・ゴホッゴホッと勝手に予測してたんだけどともかく興味深く読んだ。んでこれはこれで面白かったんだけど個人的にはやっぱりあのcatfrogさんとかtomozo3さんの企画してたオフ会が実現しなかったのはすごく残念だったなーと思った。なんというかあっちには決まりきった形式がないというかホントにやってみなければどうなるか分からないというちょっとワクワクするような可能性を感じてたので。ま俺自身はどっちにしろこうしてブログを書くことしか出来ないのでしょうがないんだけども、とにかく以下インタビュー記事を読んで思ったこと。




まず一番重要だと思うのはここで書かれていることは基本的な枠組みというか方向性としては今までmatsunagaさんが書かれてきたものの枠内にあるんだろうけど、とりあえず現状においてmatsunagaさんがオウム=アーレフから離れたのはなんらかの思想的転向があったからではないということ。一言でいえば「情熱が薄れた」ということで「出家信者」ではなくなった。そういう話であることだと思う。
そうである以上今後何らかの事情でそれこそ「情熱が復活する」というようなことでも教団に戻る可能性が十分にありえるし、そしてそれを教団の側が拒否する理由も特になく受け入れるだろうと。そういう現状なわけである。
とりあえず俺はそういう現状自体を批判するつもりも資格もないのでこの部分についてはむしろすごく正直に書かれているなーと感じる。はっきり言って仕事を継続すること、世間の中で食っていくことを第一義に考えるならもっと通りのいい建前を作ることはできるはずだしそういう要求もあっさり受け入れられる。脱会届けを正式に出せという要求をなんだかんだ言って拒否してるのも現状の認識を考えれば当然ともいえる。この点、俺はひきこもりであるからして普通の人とはおそらく価値観が違っていて、適当に建前を作ってかたちを整えるのを潔しとしない。だからこういう態度を通すのはある意味痛快であったりもする。
が。
それはそれとしてこのことについてまったく別な問題がある。それはmatsunagaさんがサリン事件について少なくとも当時それをオウムが行っていたということをまったく知らなかったのだということを理由にあるいはそれをして「実際に関わった麻原含む幹部」と「まったく知らなかった末端信者」とを分け後者の責任の有無を問うていること。そういう主張をしていること。ここに俺は大きな矛盾を感じる。matsunagaさんがそれを主張するのは潔くない。
まずmatsunagaさんは当時単に何も知らなかった末端信者である以上に「河上イチロー」名義でオウム信者であることを隠しつつオウムを擁護するという工作をネット上で積極的に行っていたわけだけど、その後色々あって結局は
http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20060316#1142445000

その後もしばらく「オウムははめられた」という認識が続きましたが、いろいろと「裏ワーク」の存在がわかってきて、すべて教団内部の人間による犯行だということがようやく受け入れられるようになったわけです。

現在は当然、松本・地下鉄サリン事件が教団信者によって遂行されたものであることは疑いのないものであるという認識を持っています。そして、松本サリン事件については村井氏(マンジュシュリー・ミトラ正大師)、地下鉄サリン事件については井上氏(アーナンダ正悟師)が具体的に計画を立て、実際に全体の指揮を執ったことは間違いないと思いますが、麻原旧団体代表がそもそもサリンの研究・製造を進めさせていなければ起こらなかった事件であり、教団武装化を進めたという意味で全体の責任を負うべきなのは麻原旧団体代表にほかならないと認識しています。

と認識するに至った。
それならばそこで本来。信じていたものに裏切られたわけだからオウムという存在なりその教義なりに大きな疑惑の目を向けるとかの相応のリアクションがあってしかるべきだ。当然そこでは場合によって思想的転向という可能性もありえる、というか多少なりともなければおかしい。特にmatsunagaさんやテレビに出てさんざ無実を主張していた上祐氏のような人ほどその衝撃、落差は大きかったはずなのだから。
だけどこれまでの行動からも書いたものからもそういうことが指し示されているようなものはない。今回教団から離れるにしてもあくまで「出家した状態で修行を続けるほどの情熱がなくなった」という程度のものでしかない。

  • もし知っていたらどうだったのか?

ifをいってもそんな事は本質的には誰にも分からない。だけれども知らなかったから云々と主張することは知っていればやらなかった(阻止するなり教団から離れるなりのリアクション)が前提になければ何の重みもない。
ではその重み付けはどういう風にされるのか? 
それはその後に教団が行ったということを確信して事実として認めた後の行動なり言動によって担保されうるのである。そこでの行動こそが知っていればどうしていたのかを完全にではなくとも保障するのだし、知らなかったから云々という主張を裏書することになるのではないのか。


そういうわけでやっぱりmatsunagaさんはそんな主張をすべきでないのだと俺は思う。それはあくまで事実を知った後に転向のあった人にのみ許される、あるいは説得力を持つ話でしかないのだから。
そして付け加えるなら、事件に対する認識が何だか軽いなというのは事件後の話でなくおそらく当時から軽かったのではないかと考えられること。つまり「河上イチロー」にとってオウムがサリン事件に関わっているのかどうか、そんなことはさして重要な問題ではなかったのではないか? ゲッペルスだかに傾倒していた河上イチローは「空気」に従って真実がどうなのかなんて疑うことなくそういう事とは無関係に行動してただけ、なんじゃないのかと。
事実を知った後の行動などからはそういうニュアンスを俺は感じるのだがどうなんだろうか。



「日本の問題」問題

http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2006/04/gripblog2r30_9d44.html
http://d.hatena.ne.jp/keroyaning2/20060425/1145912568
あとこのあたりで言われてるR30さんがこの問題の構図を日本とアジアの関係とやたら結び付けていることへの疑義について。
確かになんかちょっと擁護というか代弁のようなことをしてるとこもあってそこまで共感しちゃっていいのか、という感じは俺にもあったんだけども、ただ俺もそういうアナロジー
http://d.hatena.ne.jp/santaro_y/20060320/p1
このエントリの後半部分で示唆してたりするのでこの意義について書きます。
R30さんやあるいは靖国がどうという問題を持ち出しているmatsunagaさんがそれをどの程度の覚悟で書いているのか分からないんだけど、それは批判を無効化することには全然ならないと思う。
俺は何を書くにしても特に批判的なものであればなおさら、なぜそれを自分が書くのか、とか立ち位置からしてどこまで書けるのかを自問するめんどくさい人間なんだけども、まずこの件自体は民主党のブロガーカンファレンスに参加したわけではもちろんないし、matsunagaさんと特に親しかったわけでないまったくの無関係な第三者なのである。俺は。
ここで最初に書いたんだけどこれが問題であるのは「民主党のブロガーカンファレンス」なんかに参加したからであってそうでなければ実名性が問われる必要はなかったし逆にいえばそれ以外の個人的問題は突っ込めない。
でもすごい興味を引かれた。何か色々書きたくなったんだけどじゃあそこでどんな動機なり立ち位置がありうるのか。「まったくの無関係な第三者」ではあまり深くつっこみようがないししたくない。
そこでこれが日本人の問題としてその構図をアナロジーとして捉えられると気付いたんだけど、要するにそういうレベルであればそこで俺は「当事者」になるわけである。この件について「まったくの無関係な第三者」も深く追求したり批判したりする資格が得られるのだし、その動機にも正当性が与えられる。matsunagaさんの心理的経緯なり場合によって事件を総括することに公益といってもいいぐらいの意義がでてくる。
そういう風に思って書いたのだけど
量子的自己の脱・世間と脱・社会 - アンカテ

ここで、他人事として割り切ってしまえば、意図的に「社会」の中で「世間」の外という位置を確保して、議論を巻き起こしてほしいと思う。松永さん個人のことを何も考えずに、日本やネットやブログ界の都合だけで言えば、松永さんがクリアにそういう立場に立ってくれるのが一番いい。

しかし、そういう形で身をもって「世間」という暗黙のルールを可視化するという挑戦は、物凄い葛藤の中で的になるということであって、無茶苦茶ハードな道だと思う。経済的にようやった自立した人(である可能性がわずかでもある人)にそんなことを要求するつもりは私にはない。それではどうしたらいいのかと言えば、ここは「世間」に妥協した方がいいのではないかということになって、「アルファブロガーは烏山宛の年賀状を出すか?」で「世間」の目からどう映るのか、書いてみたのである。

essaさんのエントリのこの部分を読んで「あーそこまで求めるのはちょっと過剰な期待なのかなー」と思ってたんだけど、今回そういう話を持ち出してしまってることについて改めて聞きたいとこだったりする。
『「世間」に妥協』するつもりがmatsunagaさんにあるように見えない。その上で「日本の問題」というとこまで話を広げるなら『物凄い葛藤の中で的になるということであって、無茶苦茶ハードな道』になるかもしれないと思うんだけどそこまでの覚悟があって言っているんだろか? なんたってそういう事なら無関係な第三者の突っ込みに対して「オマエ関係ないから黙ってろ」とは言えなくなるわけだから。もちろんそこはmatsunagaさんも対等な立場での反論のできるテーブルでもあるんだけども、そういう覚悟なく言ってるならそれは批判を無効化したいだけの論点ずらしといわれても仕方ないと思う。



空気的意思決定

んで最後にこのインタビューですごく面白いなーと思った部分が
松永英明さんへインタビュー ⑤: Grip Blog <Archives>
この⑤の中でmatsunagaさんがイメージしてるサリンが製造、そして撒かれるに至った経緯について話してるとこ。一介の信者でしかないmatsunagaさんの想定なのでこれがどの程度当たっているのかは謎だけど、もしこういうようなものだったとするとこれはいかにも山本七平が『空気の研究』とかで描いているような戦時中の軍部の意思決定に近いなーと感じた。それが良いのかどうか、それをやればどうなるのかというような予測、国家に対して挑戦して勝てるのかどうかとかそういう分析なりなんなりが全然なかったのかという。
あるいは「まったく知らなかった末端信者」にしても現にやってたのは間違いなかったのだから、中にいる人にも多少なりとも疑義というか疑う声があっても良さそうなのにどうも全然そういうのがない。これが果たして信仰の問題なのか、それともそういうことはとても言えない「空気」が支配してたからなのか。それこそそんなことを言えば「非国民(非サマナ?)」とでも罵られる状況があったんだろかという。
でオウム=現アーレフが危険だというのには一つ間違いのない前提があってそれは「物凄い実行力がある」ということなんだと思ってる。やるかどうか以前のやれるかどうかというかなり高いハードルを越えたのであってそれは前科であると同時に実績なのだ。だからその目的が不明である状況において恐れがあるのはある意味当然。やろうと指向すれば出来てしまう、それだけの実行力があるとみなされているわけだから。
そしてこれは日本においてもやっぱり同じような状況があると思われ・・・


みたいな話もしたいけど長くなりそうなんでとりあえず以上。




*追加
http://news.kyodo.co.jp/kyodonews/2002/aum/a2-1.html
村上春樹による映画「A2」を踏まえたオウムについての話。今読んだんだけど4の「普通の人々」「意識の記号化」の辺りとかすごく面白い。