お金=ごはん説

祝!「リン・トゥイストが Big Picture にお金にまつわる神話と嘘の数々を語る」和訳公開! - アンカテ


オレもYouTubeであれ見てjkondoの「お金はごはんのようなもの。無ければ死ぬけど、いっぱいあっても全部食べることはできない」は面白いなーと思った。このお金ってなんですか?という質問自体おそらくネットの第二世代とされている堀江氏らのことが想定されていて、その違い(第三世代とされるはてなmixiとの)をはっきりさせる答えになっているような感じ。
でこの答え自体ははっきりと間違いではある。「お金の無い世界」は過去にはもちろん、現在でも秘境という言われるところにはあるわけだし、未来においても絶対に成立しないとは言えない。ごはんを人の十倍食べることはできないかもしれないけど、お金は人の十倍でも百倍でも浪費することができ、そしていくら貯蓄しても決して腐ったりしない。
こういうところにお金の魔力の源泉はあるわけでお金はごはんのようなもの、では決してないのだ。
と、もちろんこんな事は当然分かってて、言わんとしてる意味、メッセージは別のところにあるんだと思う。


井沢元彦の本だったと思うんだけど、江戸時代の百姓はお米を食べることが出来ず稗や粟などしか食べられなかったという「神話」の嘘を考証した話がある。当時は9割以上の人が百姓で殆どの人が米などを作って生活していて、その収穫の何割かが「年貢」としてお上に取り立てられる・・・わけだけど当時は鎖国していたのでそれが輸出されたというような形跡はない。じゃあそこで取り立てられたお米はどこに行くのか? 一割にも満たない武士や都市生活者が食べたのか、というとそんなことは出来るはずがない。なんせごはんは人の十倍食うわけにはいかないのだから。
ということで結局お米は最終的には「みんな」の胃袋に収まっていたはず・・・というようなことを当時の色々な数字から弾き出した話。
とても興味深い話だなーと思う。ポイントはやはり人の十倍消費するわけにはいかない、と欲望にあらかじめ制限が設定されていることだろう。その制限の正体が「胃袋」という「身体」であるということ。


もう一つは養老先生の話。
不安とは恐怖に対する恐怖「メタ恐怖」であり、お金に対する欲望とは欲望の可能性に対する欲望「メタ欲望」であってこういうものには際限がない、というような話。
そこには胃袋のような身体的制限が存在しない。過食は食べたものを吐いてしまうわけだから無限の胃袋を暗示している。ついでにいうとひきこもりに眠りのアナロジーが成立するならひきこもりとは過眠症である。




ということで「お金はごはんのようなもの」は「身の程を知っている」という表明である。と見なせる。
で結論。
確かはてなポイントは現金化できなくなったと思うんだけど、あれお米に変えられるようにしたらどうだろうか。
米本位制にしてしまうというw