失望補正

otsune 『なんだ。この程度のひとだったのか』
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/ululun/20060608/1149738874
tomozo3 『こんな質の低い詭弁を発するとはガッカリだな】
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.drecom.jp/akky0909/archive/717
gotanda6 『こういう文章は下手ですね』
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://deztec.jp/design/06/06/17_tv.html
b4-tt 『一体どうしちゃったの?「読める能力に秀でている」essaさんらしくないなぁー。』
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/essa/20060619/p2


となんだかオレに見えている世界で立て続けに失望コメントを見かけた。何らかの暗号だと思われるので適当に読み解いてみる。




まあそういう時期なのかもなーという大雑把なつかみ。ブログもブームと言われて結構経つのでそろそろ遠近感に適当な補正がかかってきてるのかもしれない。
最初にこれを激しく感じたのはあの切込隊長の件だった。当時そこには強烈な磁場が発生していて、あるいはとてつもなく大きなイメージが共有されていて、何だか分からないけどとにかく凄かった。・・・のだけどもあの一件はその幻想を打ち砕くに十分だった。事の真偽ではなくその問題への対処にそれまで感じていた大きさとの不均衡を見た、のだと思う。
これ自体はある意味自然な流れなのかもしれない。ただ興味深かったのはその早さだった。


かつてのテレビに大スターという存在が成立しえたのもメディアというものに、特に新しいメディアに「遠近感の狂い」という機能が備わっているのが前提。これが大きな幻想を支える基盤になっていて、逆に今それが成立しないのは見る側に「目」ができてしまったからなのだ、という話。みんなそこで語られないもの、写されない映像を適当に補正、補完して判断するようになって遠近感を合わせられるようになってきたのだという。
堀江氏だって逮捕前に喧伝されていたほど大きくなく、逮捕後に語られたほど小さくもなく、実像はその間の適当なところにあると当たりを付けている人が殆どだったように感じる。


ブログ含む文章によって成り立っている世界では表情や声音などが分からないので不完全なコミュニケーション云々とかよく言われるけどもこれはそのまま幻想の余地にもなってる。実像より大きく見せたり小さく見せたりする機能があるわけだ。けどただ異常に早い。補正が掛かるのが。目が出来てくるのが。それを切込隊長の一件は暗示しているように感じた。
もちろんそれは基本的には良いことだと思う。思うんだけども・・・ちょっと面白くなかった。多分願望みたいのがあるんだろな。大きな台風を待ち望むような気持ちがどっかに。


まぁともかくも今そういう時期なのかもしれないので気をつけたい。なんだかんだ言っても失望コメントは結構応えるだろし。