リアリティのある世界
- 「亀田」と「時かけ」 - メディアの扇動力がネットに圧される時代 | デジモノに埋もれる日々
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- 発熱地帯: 回転が加速していく小さな歯車とサビついてきた大きな歯車
この流れを読んで思い出した話。ネットでの状況と現実=現在の世界とのズレについて。
『スーパーマリオワールド』(1990年)でのマリオの操作を思い出してほしい。
マリオは、十字キーの左右で、左右に動く。
Aボタンでジャンプする。
床が途切れているところがあって、走りながらジャンプして飛び越える。ジャンプするタイミングを間違えると、穴に落ちてマリオを一人、失ってしまう。
だが、ジャンプした直後に、「あっ! タイミング失敗! マリオ戻れ!」と、思わず十字キーを逆に入れて助かることがある。
マリオがジャンプの途中、空中で進行方向を逆向きに変えるからだ*1。
ジャンプ中に真反対に進行方向を変えるなんてことは、現実では、ありえない。
でも、思わず十字キーを左に入れたときのプレイヤーの気持ちと、ゲーム画面中のマリオの行動が一致した時、ゲームにリアリティが生まれる。
思わず入れたキーに、ゲームのマリオが反応してくれる気持ちよさ。
現実と一致することが「ゲームのリアル」じゃない*2。
ゲームのリアルは、「プレイヤーの気持ち」が「インターフェイス」を通じて「ゲームの中」と一致することだ。だから、ゲームのリアリティは「現実」を目指さない。プレイヤーの気持ちを目指す。
これ最初読んだ時かなり感動したというか凄く分かった気がした。「ゲームにおける」というカッコ付きになってるけども、今改めて読むとこれは「現実」と「リアル」という言葉の使い分け、その違いを表しているようにも思う。
自然に対する人工を「人の脳が作り出したもの」と定義するならバーチャルリアリティと現実の世界への認識にほぼ違いはない。その脳を作ったのが現実の世界(というか自然)である、という前提条件が違うだけ。現実感自体は人工的にしか作られようがない。だからリアル及びリアリティとは人の気持ちとの一致、つまりは人の脳を指向している。脳の性質、クセと言ってもいい。
でネットの世界が指向しているのも実はゲームと同様「プレイヤーの気持ち」なんだと。これは『デジモノに埋もれる日々』のCKさんがしょっちゅう言っている事だけれども人の気持ちの流通する世界、「私」の気持ちと一致する快感のある世界なわけであり、であるからしてネットの状況と現実のそれにズレがあるのはまぁ当たり前。ネットのベクトルが脳の方に向いていると考えるなら。
じゃあそれが脳内妄想でしかないのかというとそうでなくて、要は「現在」を表さないんだろうと。人の気持ちは現実の動きに先行する。それは未来の予測には役立つかもしれないが“今”を表していると考えるなら間違うということだろう。
おそらくネット世論はずれ続ける。
後の現在、にはなるかもしれないけどその時はまた別な気持ちになってるだろうから。
そしてネットというのは「最もリアルな世界」なんだろうと思う。