ジェンダーフリー・バッシングのまともさについて

オレはどちらかというと明らかにバッシング側に共感をもって見ているんですけども。
わしズム』Vol.7の中でアフガニスタンの支援をしている中村哲さんという人の話を以下引用。

中村:
これも結局、相手の立場を何も考えてないんです。例えば支援の項目を見ると、「女性問題」というのがあります。フェミニズムです。まぁ、女性を解放するのは別に悪いことではないんですが、少なくとも真っ先に取り組むような問題じゃありません。支援する側の優先順位がでたらめなんですよ。今アフガンに何が必要なのかという認識がなくて、自分たちの国で評価されるものが優先されてしまう。栄養失調で人がバタバタ死んでいる国で、「ブルカを脱げ」だの「近代教育が必要」だのと言ってる場合ではないんですよ。

この人は本来医師でアフガニスタンには医療活動のために行ってたんだけど、「必要なのは医師じゃなくて水だ」ってことで井戸を掘る活動に切り替えるということをしていたのだった。そういう人の発言というのもあってこの話は説得力大。
で一見全然関係ないように見えるけどジェンダーフリーへのバッシングというのはこれと同じ話なんじゃないかと思ってる。おそらくアフガニスタンの人が感じたであろう戸惑い、その延長線上にあるものなんではないかなと。


上の話は極端な例なのでその場違い感は分かりやすい。ものには優先順位というものがあるのだと。なるほど。
フェミニズムというのは歴史的な経緯として新しくでてきたもので、ということはつまり様々な社会的設備とか基盤の前提があってそこで始めて問われる性質のものなんだと思う。基本的にピラミッドの上の方に置かれる石。
でも今まさにその基盤の部分に大きな「揺らぎ」が生じているんだろうという認識はおそらく殆どの人が一致しているところなんじゃないのか。ってことは結局下がったと考えるのが妥当だと思う。優先順位が。少なくとも「以前」に比べて。
だからバックラッシュというやつは左右の軸で見るのも正しさを巡る争いと見るのも間違いで、あえていえば上下のそして「課題の優先度」を巡る争いなんだと。ホントは誰もジェンダーフリーが間違っているなんて話はしてなくてそれが及ぼす範囲の縮小を求めている。極論を引っ張ってきて攻撃するというのもちっともおかしい話じゃない。そもそも本丸を落とすつもりがなくて行き過ぎた部分を戻したいだけなんだろうと。アフガンの人たちがそんなことよりまずは水だ、っていうのと同じ構造。
essaさんのエントリーで解説されている分析とか殆ど異論はないんだけど結論的に「だからバックラッシュは不当だ」という感じになるのだけが分からない。あらゆることは「だからジェンダーフリーの優先度は下がったのだ」という結論を導くように読めてしまう。
ジェンダーフリーというのがどう人を幸せにするかはまったく分からなくても、ジェンダーフリーを問える社会が豊かで安定した社会であるというのは確かだと思うわけで。


まぁ実際どういうつもりでやってるのか分からないけど共感の土台にはこういう感覚がある。