ハレの世界

コメント欄に書こうと思ったけど長くなったし、しばらく書いてないわでこっちに。
最近考えてたことにちょっと関係してるなーと思った。
ちょい古い、十年ぐらい前の本の中で「情報体」という言葉が使われてるものを読んだ。大体の内容はネットによって社会的自己とは違う「メディアの中の自己」が成立するようになるのかもしれないというような話。新興宗教とかともちょっと話を絡めているのもあって、霊媒と書いてメディアと読ませたりもしていて。
今ではそんなに変な話でもないけど、それでもやはり初期の頃だけに直感的な言葉がところどころ。


で前あのエントリを読んだ時は人に認められるのを諦める、つまり世捨て人になるのを勧めてるように読んだのでそこが引っかかってたような記憶があって、いや実際勧めてはいるんだろうと思うけど、でも人に認められ承認される欲求を諦めてるわけじゃないんすよね。というかそれを諦めるのはまぁ無理。
そこで社会的自己=メディア的自己がポイントに・・・とここまではいいとして。
ちょっと話はズレるけど書き出しにある危惧、危機感のようなものについてなんすけどもこれ、今オレ無くなっちゃたってとこなんすよねー
かつては確かにそれは共有されていて、catfrogさんにあったのがオレに伝播したのか、それとも逆なのか今となっては分からないけどそういうものを強く感じてて、そこからくる衝動でもって色々書いてたとこがあり。
ところがどうやら確信をもってしまった。流れとしてどっちの方向に行くかみたいなことについては。
ハンドルネームか実名か、でいうなら勝ち負けはともかく匿名優勢の状況が変わることは多分なさそう。
ネットを支配するルールがリアルの、現実世界の、日常世界のルールに従属したり完全に一致することもないのだろうと。もちろん逆もしかりで、ネットは今後も異常で過剰でどこか狂った非日常的空間であり続けるんだろうというような。

根拠になってるのは大体この辺りに書いたような話で、この二つはオレの中では完全に繋がってる。そしてネットは「ハレ」の世界だというのが大体の結論。
「ハレ」と「ケ」というのは民俗学の用語らしく辞書的には「非日常」と「日常」というような意味だけど、対して詳しいわけでもないのでその程度の意味。ただウィキペディアにもある

ハレとケとケガレのモデルには、日常生活を営むためのケのエネルギーが枯渇するのがケガレ(褻・枯れ)であり、ケガレはハレの祭事を通じて回復すると唱える桜井の循環モデル等がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%81%A8%E3%82%B1

この循環モデルというのがイメージに近くてすごくいいのでこの言葉を使いたい。




まずそこがハレの世界なのかケの世界なのかを見分けるのは多分簡単であって、芸能界とか歌舞伎の世界、相撲取りの世界、仏教の世界etc・・・とそれぞれ芸名、四股名、戒名、と実名とは違う名前が付けられその名前で呼び交わす独特の習慣、ルールを持っている。これが非日常的ハレの空間であるサイン。
ハレとケなんて言葉は知らなくても、その感覚自体は日本人のとても深いところに根ざしていると思われ、だから順序としてはむしろ、

  • そこを「ハレ」の世界なのだと認識している人がハンドルネームを使っている

ということになる。
当然実名を使っている人は「ケ」の世界だと認識(あるいはそうなることを望んで)いるわけで、やはり実名か匿名かというのは根本的な認識が異なっているということなんだと思う。
で一先ずは匿名優勢の今の(日本の)ネット空間がハレの世界であるということはまず間違いない。ただ果たして今後もそうであり続けるのか。実名派を象徴とする日常性の浸潤は物凄い勢いで進んでいる、ように見える。これに抗うことが果たしてできるんだろうか。
ディープなネットユーザーはこういう日常性の浸潤に敏感で、こういう流れに嫌悪感を感じている人は多い。アフィリエイトをやっている人をアフィリ厨とか揶揄したりするようなあの感性とか、いわゆる炎上とかにも背景にこういう非日常と日常の間の争い、みたいなのがあったりなかったり。。。
だけどもこんな嫌悪感程度では日常性の浸潤に対抗するのにはいかにも頼りない。こんなもんで対抗できるのか。いったいネットの明日はどっちなんだ!?・・・ってな辺りがまぁオレとかcatfrogさんが興味を持っていた部分。


そうすると当然こういった嫌悪感をもたらす心性なりあるいはネットに非日常的ハレの世界を求める欲求なりが、何に由来していてそれがどれぐらいの強度を持っているか、という辺りがポイントになってくるのだった。それはちょっとしたきっかけで失われてしまう程度のものなのかどうかという。オレが確信を持っているというのはつまり、ここのところに対してということになるわけだけども。


そこで改めてハレとケの循環モデル。

ハレとケとケガレのモデルには、日常生活を営むためのケのエネルギーが枯渇するのがケガレ(褻・枯れ)であり、ケガレはハレの祭事を通じて回復する

ハレは大体こういう祭事、お祭りのようなものを意味していて、それを行うことで新たな生気を宿した「日常」世界が回復する、となっているこれ。これはいったい何に基づいているんだろうかということだ。言い換えると「ハレ」とか「ケ」という感性は何に由来しているものなのかという。
オレは「ハレの祭事」とはずばり「夢」のことなんだと思った。「ハレとケ」とは「夢見る意識と目覚めている時の意識」の対比。そして循環モデルとは、人が夜眠り異常なちょっと狂った夢を見、また新たな日常の世界に目覚める、という人間のこの生態に基づいてるんじゃないのかと。


ここまでくればもう答えは近い。
かつて新興宗教ブームが必ずくるだろう、みたいな言説があって、まぁ今でもあるのかもしれないけども例えばこういった予測の根拠になっていたのが、全てが日常性によって覆い尽くされている世界は異常である、という現状認識がまずあるのだった。「全てが日常性によって覆い尽くされている世界」というのを上に書いた話で解釈し直すならそれは「眠らずに目覚め続けている意識」といっているに等しい。仮にそうだとすればなるほどそれは異常事態だと納得できる。
でそういう現状認識を踏まえたうえで「新興宗教ブームがくる」という予測がされたわけだけど、この予測はつまり「いつか眠らざるを得なくなってそこで人はちょっと異常でアヤシゲな夢を見ることになるだろう」という予測でもあるわけなのだ。
夢でなら空だって飛ぶことができる。そこでは日常的ルールの制約はもちろん物理的ルールも無視される。であるからこそ、起きている時の意識から見て夢の世界が狂っているのとまったく同じ理由、力学によって新興宗教は狂っているのだし、狂わざるをえない。それは夢の果たす機能、役割を担っているものなのだから。
昔の本でネットと新興宗教を対比して語っていたのはやはり直感的で正しいアプローチだったんだと思う。宗教でなくネットが来た、といってもネットが新しい宗教(が担っていた機能の代替)といっても同じで、多分今後もそこはハレの世界であり続け、眠りの(夢の)機能を担う方向へと進んでいくんじゃないだろうか。




と大体こういうような感じである種の危機感はまったく無くなってしまったのです。ホントにこういう風にちゃんと繋がってるかは誰にも分からないかもだけど、繋がってさえいればこれほど強力な根拠もない。なんせ「生理的欲求」からきてるものなので誰もそれに抗うことはできないし、長期的に見れば必ず勝つ。というか抗う人は必ず負ける。いつか強烈な睡魔に襲われて。
人間が夜眠りアヤシゲな夢を見る存在であり続ける限り、この生理的欲求は動機付けや衝動、欲望となって表現されるしそれを支え続ける。
もっともゴールはそこじゃないというか目指している地点は多分その先にあるはず。この眠りを経たその先に待ってるだろう目覚めの時。生気を持って蘇る日常世界への回帰、、、というとこがゴールなんだと思うんだけど、そこまではまだまだ遠そう。でもオレはcatfrogさんがチャカしていう「アカルイミライ」ってそこを指してるんじゃないかなーと今思っていたりして。