終わりの快感

こういうことは先に言って欲しい。
いやまったくもってここに書かれていることには同感。
まさしくそれは幸運なことだった。今から振り返ってみればの話。

あらゆるコミュニティは一定のパターンで立ち上がり、衰退していく。ネット上のものに限らず。

(1)創成期
一定のテーマや中心となる人物、またはツールの存在をコアとして人が集まりだす。

(2)成長期
コミュニケーションが活発になり、新メンバーの加入も盛んになる。
初めてオフ会が開催されるのもこのへん。

(3)円熟期
多くのメンバーが盛んに活動し、活気がある状態。一方、内輪だけで通用する符丁めいたものや独特の空気が醸成されていき、それについていけなくなる者も出てくる。
コミュニティが有名になってリテラシーの低い初心者、これまでの蓄積を踏まえず場の空気を乱す者などが目につき始める。
メンバー間のトラブルが気になるようになるのもこの頃。

(4)硬直期
常連メンバーが固定化され、活動がマンネリ化。ネタ切れも起こる。
少人数の仲のいいメンバー同士での活動が盛んになる一方、一方でコミュニティ参加者全員が目にする「表」の場での動きは散発的になる。

(5)衰退期
コミュニティが求心力を失い、中核メンバーが抜けたり幽霊化する。一部メンバーが独立して対抗的なポジションのコミュニティができたり、母体のコミュニティそのものが分裂・崩壊することもある。

(6)そして誰もいなくなった
コミュニティが閉鎖される。閉鎖されない場合は、スパムの管理すらされなくなった掲示板が残骸を晒していたりする。過去のトラブルが(あれば)伝説となって、まとめサイトに残る。

順序がずれるようなこともなく確実にそれは進行。
今は(5)の辺りになるんだろうか。


ずいぶん酷い話だと思う。
多少は結末に選択肢はあるんだろうけど、そこには正解というものがない。
あらゆる試行錯誤も努力もこの流れを押し止めることはできないし、無為に終わってしまう。
優秀なギャンブラーなら引き際を心得ている。
優秀でもギャンブラーでもないタダの人は負け組になっちゃうのか。


似たような話は何度か読んだし、経験の長い人にとってはどうも常識の範疇になってることのようだった。
でもなんか違うよなー。いや全然違う。
そうじゃないだろと。
これを読んであーあるあるーって言って終わってはいけない。
で分かった。悟った。

  • ネットコミュニティはあらかじめ寿命を定めておくべし

すでにどこかで言われているのかもしれないし、そうであって欲しいと思うけど全然足りない聞こえてこない。
この忠告がどこかでなされていれば、、、と思うと残念無念。まぁその時では分からないのかもだけど。
ネットコミュニティを始める最初の時点でいつ閉鎖になるかを宣告しておく。あるいは遅くとも(3)の円熟期に至る頃までには決めなければいけない。
(6)の地点が誰の目にも明らかな状態にする。
面白い時期はまぁ(1)〜(3)まで。(3)になる頃にはもうマンネリ、倦怠期でもあるので色々齟齬もでてきているあたり。
しかしこの倦怠期も半ばを過ぎた頃から始まることになるのわけだ。終わりへのカウントダウンが。
それは毎日着実に近づいてくる。一時期バラバラになっていた心が、ある一点に向かって収束していし、共鳴し始める。
そして溜まりに溜まったケガレを一気に燃やし昇華する時。
くだらないイザコザも何もかもその日で全て終わり。
今日で終わりか、と思えばこそ憎いあのヤロウもなんだかそう悪くもないヤツかもなと思えてくるのかどうかはしらない。
まぁ錯覚。別になんだっていい。


これ、だよなー。こういう快感。
深いところで求めてるのってこういうものだったのかな。
終わりの時って中々意識されない。オレが覚えていて印象深いのはひろゆき氏の言葉で、2ちゃんはいつ終わってもいい、必ずその時は来る、みたいなの。
その2ちゃんねるは何度か危機を迎えて終わりかけたらしく、その辺の話を伝え聞く限りでは悪くない感じ。終わり方として、ひょっとするとその時終わっても良かったんじゃないかという。
残念ながら?今だにあるけど、そこは何か繋がっているような。
・・・って振り返ってみると、ひょっとしてオレはこのブログも燃やしたいとどっかで思ってるんじゃないか。思ってるっていうか、どっか心の奥深くでそういう妙な欲求がジリジリ熱を持ってきてるような微かな感触。
無意識になにか感じてる。
“お札を燃やす快感”
南伸坊の本でそういう話を読んだ。その時はイマイチ。
“汗水垂らして稼いだお金でないといけない”
それがオレにとってはこのブログ、ということなんだな。きっと。