流民の思想としての道家道教

2ちゃんねるをバーチャル流民の群れと見なし、そこに「天意」を見るという発想。

この中でも特に面白いな〜と思うのが道家。これは後に道教という宗教にもなるのだけど『>民衆に広まった』点や、この辺で書かれているように『>道家の理想とする社会は、自給自足の農村共同体のようです。権力とか、道徳的強制が入り込んでこないような共同体。そういうモノを一応目指したようです』というようなとことかが何となく2ちゃんねる的。

http://d.hatena.ne.jp/santaro_y/20051008/p1

ここで書いた「2ちゃんねる道家」説に繋がってると思うのでこれの一応続き。


道家から道教へ至る転換点になっているのが、三国志で有名な黄巾の乱であるらしい。ここで初めて道教は教団として組織化、制度化することになったのだと。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99=titile=
三国志は「蒼天已に死す 黄天當に立つべし」というスローガンを伴うこの黄巾の乱から始まっていて、一つの王朝が終わり次の新たな王朝の到来を告げるまさに「天意」のようなものとして扱われている。それが道教に依っていた、というのがミソというか興味深いところ。


そこで改めて考えてみると、元々道家というのが田畑を捨てた流民に最も適した思想だったのじゃないかと思えてくることだ。
いちおう道家儒家や法家と同じ一つの政治思想であって共同体に秩序をもたらす方法論でもあるけど、それは決して政権与党に採用されるものでないし多分されたことはない。

老子は、恣意的な行動や欲望、さらに知識をもしりぞけ、自然(「道」)にしたがって国を治めるという無為の政治学を説いた。これは道徳や儀礼、あるいは制度や罰則といったものによって国を治めようとした儒家や法家へのアンチテーゼであった。

http://homepage3.nifty.com/juroujinn/douka.htm

というようなところからも、政治思想としてもそれはあくまで「良質な野党」であるところにその存在意義があるように思う。日本で共産党が下層に位置づけられる最も抑圧の大きい労働者の代弁、擁護者であるようなもの。共産党が良質かどうかはともかく。
田畑を捨てた流民の存在をおそらく道家は非難しない、どころか肯定するんじゃないかと思える。あらゆる人為を否定するなら必然的に行き着く答えとも考えられ。
いずれにせよ道家道教は被抑圧者にとってこそ救い、癒しとなるとこがあり、場合によってはそれを一つにまとめて強力な反乱の理論的根拠になることさえあるのだった。反乱自体はある種必然的に負けはしてもだ。
今でさえ戸籍を持たない人が中国には相当な数いるわけで、そういう存在は歴史上常に存在していただろうし、政治が乱れてくると大量に発生しただろう。こういった背景があってそこから道家道教のようなものが出てきたのだとすれば、2ちゃんねる道家的なものを感じたとして不思議はない。
抑圧の大きい名前を捨てた匿名集団から生まれてくる思想(気風)は、必然として道家的なものになるんじゃないかと思うのだった。


と、一先ず書こうと思ったことはこんなようなことなんだけど、書きながら一つ面白げなアナロジーを思いついたのであんまり関係ないけどそれもついでに。

大東亜戦争黄巾の乱

レンズの倍率を変えれば、あの日本の戦争は黄巾の乱とその後の経緯にちょっと似ている。
元々黄巾の乱太平道という単なる宗教運動というか活動というかそういうものでしかなかったのが、いつのまにか政治的野望を持つに至ったわけなので、政治的運動であると同時に宗教的理想の追求のようなそういう両面を持っているものだったと思う。
日本の戦争において政治的野望に拠っているのは当然にしても、けどそれだけでは到底説明できない「宗教的熱狂」とでもいうような匂いが強く漂ってもいる。特攻作戦とか一億総玉砕なんて決して政治的発想から出てくるものではなく、やはり二つの面を持っているものだったと思う。
流民や過酷な状況にあった農民を纏め上げ政権の打倒を目指した黄巾党、と植民地化され蹂躙されていたアジアを纏め上げ欧米列強に対抗しようとした日本。
で結局黄巾の乱は鎮圧されてしまったけど、この討伐で名を上げ力を持った諸侯が次の時代の大きな勢力、魏・呉・蜀の三国となり、まぁ最終的には曹操の魏が最大の勢力となるに至る。
ここで面白いのは曹操が群雄割拠の多くの勢力の中で頭一つ抜けた理由として、黄巾討伐の際、残党30万といわれる数の黄巾軍を自軍に組み入れることに成功した、というのが非常に大きな要因であると言われていること。
要するにこの曹操ならびに魏がアメリカになるわけである。


ここからは欧州もしくはアメリカ視点で。
第二次世界大戦前のアメリカは急速に勢力を伸ばしてはいるけど単なる新興勢力の一つに過ぎなかった。「王朝」は広くまぁ欧州ヨーロッパ。アメリカの第二次大戦への参加は基本的には「王朝」からの要請によっている。彼らからしてみれば日本の戦争は本来自分たちが支配すべきアジアの反乱でしかなかった。この討伐を王朝はアメリカに要請したわけで、これは「後漢の王朝から黄巾党討伐を要請された曹操」という構図にかなり近い。あくまで彼らの主観からすればそんな感じだったんじゃないかと思われる。
ともかくもアメリカはこの反乱の鎮圧に成功した。と同時にこの反乱軍を懐柔し自軍に組み込むことにも成功したのだった。もうこの頃にはアメリカははっきりと野心を持っていたというか大戦後の勢力図を見極めていたらしい。
でもって大戦後の米ソ二大勢力による冷戦という天下二分の計を経てそれにも勝利。今に至る。


という感じでちょっと欧米側に偏った視点な気もするけど、日本には「天意を告げる狂人」というイメージがあるんじゃないかという話。