天災と革命・怨念が昇華される時

浅羽通明アナーキズム』という本の中で、地震と革命の関係についての面白い話を読んだのでちょっと紹介。まだ半解という感じなので勝手な読みを多分に含むかもだけど。


おおよその本の内容は「アナーキズム」というカテゴリーに属すると思われる色々な思想やその起源を分析紹介するというもので、その第7章『五十六億七千万待てますか?―ミレニアニスト』の中で日本における天災(主に地震)とある種の革命がもたらす効果の類似、その関係性について論じられている。
まずキリスト教の異端派であるミレニアニズム=千年王国主義と同じような形式を持つ、例えば仏教における弥勒信仰、あるいは道教系のユートピアを目指す運動であった黄巾の乱など、特にユートピアを現実とするため積極的に活動するものを「革命的千年王国主義」とし、これをある種のアナーキズム思想の源流の一つであると見なす。
でこういった「革命的千年王国主義」を支持しその活動のエネルギーになっているのが、現世において強く抑圧された者たちのあらゆる価値の転覆を願う心性、いわゆる「ルサンチマン」であるのだと。これが「革命的千年王国主義」の動機付けや大きな推進力になっているというのは前回ちょうど似たような話書いたとこなのでまぁ大体理解できるところ。
この辺ちょっと面倒なところで詳しくは実際に読んだ方が分かりやすいと思うけど、とにかくその後「なぜ日本に千年王国主義が成立しないのか」という展開になるんだけど、ここからが面白い。
一応日本にも仏教経由の弥勒信仰があるにはある。しかしそれが積極的な革命的運動に至ったような事例はほぼないらしい。唯一「大本教」の活動が例外的に存在するだけであるという。(終末論によっていたオウムもこの系譜にあるけど、こういう新宗教のそれこそ大本に大本教があり、これを凌ぐものではないという認識)
日本に千年王国主義が発展しない理由。それは日本には定期的に大地震が訪れるから、というのがここでの結論。

  • 天災が革命を代行するニッポン

千年王国主義どころかそもそも日本では「革命」自体、歴史的には一度も成立していない。世界で最も古い王家であるという天皇の存続がその証左。
つまり別に革命なんてあえてしなくても、定期的に訪れる大きな天災が秩序の崩壊とその建て直しの契機となっているのだという。
いやむしろ逆。
日本で天災が革命を代行してるんじゃなくて、千年王国主義による革命という発想がそもそも天災を模しているものなんではないのかという洞察。




個人的にはかなり腑に落ちた。千年王国主義のようなものはユートピアを作るという前向きな面より、古い既存の世界の秩序を崩壊させること、その破壊という衝動が強くあり、それは災害のようなものとして表現されることが多い。
これを読んでイメージとして浮かんだのは例えばこういうストーリー。
かつて自然の力の前にはまだまだ無力だった人間の社会。社会の変化のスピードもずっとゆっくりだった時代。
自然の脅威たる災害に常に晒され、積んでは崩し積んでは崩しの繰り返しの中にあって、しかしとにかくそういう世界においては積むことだけを考えていればそれで良かった。天災は文字通り、神の怒りの表現のようなものとして意味づけられたりもしてそれを呪術的に何とか防ごうという営為もあったのだろうけど、壊されてしまえばとにかく回復する為に努力するしかない。
そういう世界がずっと続いていた中で、人は次第に自然を制御コントールする力をどんどん持ち、同時に知識が蓄積されていく中で社会の変化のスピードも増していき、いつしかこのバランスが崩れ始める。自然の変化のスピードを追い越してしまったことによって。
その時、天災が社会に与えていたポジティブな側面が強調されてくることになる。例えば破壊と再生による活性化というような面だ。そこで過去の経験知から天災をむしろ待ち望む心性が出てきて、それが例えば千年王国主義のようなものとして結実する・・・とまぁこんなようなストーリー。
こういった動機による革命は人為的に起こす天災と意味付けられることになるわけだ。




天災と革命。この二つの関係でもう一つ、特に日本においての怨霊信仰が興味深いと思った。怨霊信仰とは一口に言えば地震や飢饉などの天災に「人為」を見るという発想だ。恨みを持って死んだ人間の意志(霊)が天災となって現れるのだと見なす。こういう発想がかつては強力に、今でもやんわりと無意識の世界で日本人を縛っている、と考えられている。
ところで千年王国主義による革命、例えば道教ユートピアを目指した太平道張角は「蒼天已に死す 黄天當に立つべし 歳は甲子に在り 天下大吉」というスローガンを掲げていたが、これはつまり「天意」を主張しているのだった。あるいはマルクス主義による革命だってその根拠は「科学的真理」という名の天意に他ならないもの。
本来人為でしかありえない革命が天意を主張し、本来天意でしかありえないはずの天災に人為を見る怨霊信仰。この間の距離はとてつもなく近い。どちらも大きな抑圧のエネルギーを発端として捉えてる点も同じ。


この話をすぐ書きたくなったのは今現在の状況に強く関係してくるように感じたから。
すなわちウェブ大進化、テクノロジーが否応なくもたらす社会の権力構造の大きな変化の時代という予測文脈がある一方、同時に関東及び東海地方辺りに大地震がいつ来てもおかしくない、もうくる、今にもくるという予測があるこの状況。一見まったく無関係なこの二つのことが強力な意味でもって結びつくかもしれない可能性。
まぁ上の話に納得したとしても、それがどう結びつくのかは難しいとこだけど、とりあえず一番素直にというか前向きなものとして考えたこと。
革命なんてものには光の部分と同じぐらい影の部分があるものなわけで、特に千年王国主義のような人為的天災によっていればなおさらだろうと思うけど、例えば影の典型としての「王殺し」。マリー・アントワネットをギロチン台の上に立たせるような意志。ルサンチマンなんていつの時代でも一定のエネルギー常に底流に存在しているもんだろうけど、大きな変化の時代にあってはそれが表面に、半ば公認され堂々と発散されるというのはよくある話。
そういう革命の残酷でネガティブな側面をひょっとすると大地震は和らげ緩和するのじゃないだろうか。ルサンチマンを飲み込み昇華するブラックホールとしての大地震
別に起こらなくても予測だけで十分にその機能は果たすのではないかなと。まぁ実際起こってしまえば惨事に違いはないかもだけど。


つい最近渋谷であった大爆発の事故で、近くにあったコンビニだかの店員の「ついにきたと思った」みたいな証言が面白かった。今まで一度も経験したこともないだろう衝撃を即座に地震と結びつけたのもそうだけど「ついに」って大破壊を常に覚悟している言葉。関東東海辺りに住んでる人の大部分が今こういう認識というか構えを持ってるわけであり。
何か今この時に大地震がこようとしてることに、むしろ天意じみたものをちょっと感じるのだった。