(1)哲学的問題

http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/skondo/saibokogaku/kairoudouketsu.html


哲学は非常に難解であるにも関わらず、なんとか理解してようやく辿りついた結論らしきものはたいてい「当たり前」なものでしかない。これはもうすでに哲学的結論を前提にした世界観の中に人々が生きているから、ということのようだ。
哲学って一見するといかにも人間的行為にみえるが、そこでは非人間的努力が必要とされる。厳密で揺らぎのないよう定義された言葉をもちいるが、それは生きている人間の言葉ではない。フローなところの一切ないストック型言語、というべきか。
吉川浩満著『理不尽な進化』の中で物理学者マックス・プランクの「自然科学の思考は、あらゆる人間的要素を除去しようとする恒常的な努力にほかならない」という言葉が紹介されているが、哲学もやはりこの系譜に属しているのだろう。
『理不尽な進化』の終章、生物学者グールドを主人公とする「理不尽に対する態度」の部分がとても興味深く、しかし哲学的で難しい部分を含むためなかなか読み進められないでいる。
なのでまずは哲学によって解明が進んでいるらしい「説明と理解」問題について自分なりに色々考えてみる。
ここでの「説明と理解」は哲学のそれとは似て非なるものである可能性大なのであしからず。



芸術作品をいくら分析、評論してもその芸術作品が与える感動を超えることはできない

説明と理解とは端的にはこのような問題である。分析評論が「説明」、芸術作品が与える感動が「理解」。
以下思いつくのは


・理性と感情
言語化できるものとできないもの
・客観的記述と主観的経験
・脳の発火の軌跡とクオリア
・変わらないものと変わるもの


よくある問題ではあるが、これが進化論とどう結びついてるのかがこの本の肝で、さらにここに新たに「偶発性」という概念がどう織り込まれるのかというところで止まっているのだが、一先ず芸術について。


あらゆる芸術作品は人間によって人間のために作り出されている。
そして芸術作品はそれそのものに価値があるのではない。
それを見たり、聞いたりした後、ないし途上の人間の内部的変化こそが価値である。
従ってその良し悪しは観る前と後の変化の差分、その大きさで測られるもので、すべてはそのきっかけであり、契機となっているに過ぎない。
その意味では例えばドラッグがもたらす人間の内部的変化も芸術となんら変わるところがない。
現にドラッグカルチャーとして一大ジャンルを築いているが、ある人がゴッホの作品に感銘を受けたこととドラッグで劇的な高揚感を得るのとに、貴賎は存在しない。


ただ一点、しかし極めて重要な違いがある。
それは芸術作品が「人を選ぶ」のに対して、ドラッグは否が応でも誰にでも「効いてしまう」という点である。
ゴッホの作品はオレにとってその辺の飯屋の壁に飾られているのとなんら変わることのないただの絵だ。何の感慨も感動ももたらさず、それはただの紙と絵の具によるひまわりの絵であり、そういう人と絵があるという「情報」である。
一方ドラッグはやったことがないのが残念だが(ゴッホの絵にかんどうできないのと同じく)それは確実におれにも効くし、おれの内部に大きな変化を及ぼすのは間違いない。
このことを基礎工事のない建築に例えてみる。
基礎工事がされていようがされていまいが、家を建てることはできるし、できた家の違いは一見して素人には分からない。
だが時間が経つにつれ、その違いは明白になっていく。
その加重で年々ゆがみが生じ大きく傾いていき、地震や大雨などの環境の変化にたいして極めてもろく、場合によってはあっという間に崩れ去ってしまう。
つまり芸術的な感動は基礎工事という「準備が整った状態」の上にしか成立せず、それの無いところには建築されない。
だからこそ安心してその内部で快適な生活を営んでいくことができ、生活を豊かにするものでありうる。
逆にドラッグが時に人の人生を破壊する事態になるのは(その中毒性を別として)それが無条件に暴力的に強制的に建築されてしまうせいで、内部的統一性やバランスを崩す要因になってしまうからだろう。


この特質をもって、芸術はドラッグに対して圧倒的な優位性をもっていると言っていいと思うが、ただし、暴力的強制的という性質は人間の変化としては当たり前で、決して選択的ではありえない。
ドラッグを飲むかどうかと違い、ゴッホに感動できるかどうかを人は選ぶことができない。もちろん教養は必要な場面もあって選択的に教養を積むことはできるが、「芸術作品をいくら分析、評論してもその芸術作品が与える感動を超えることはできない」わけで教養があれば理解できるというわけでもない。
それは結局のところ、人間の持つ欲望が関係している。
何を食うか、は選択可能だが何かを食いたいという欲望は勝手に生じてしまうし、女に欲情するのに意味など必要ない。ハイヒールに欲情する人間もいる。
だから結局はゴッホにたいするフェチズムも身を持ち崩す要因になりうるわけだが、ともかくも人間の内的変化の要因は対象がなんであるかを問わず、そして起こるかどうかは非選択的であるが、同時にその人にしか起こらない個別具体的な経験でもある。


「説明と理解」が問題でありうるのは、説明体系たる科学の方法論による進歩(それも急速な)がなんでもどんどん説明し、主観的経験とその意味を脅かすからである。
ゴッホの絵画を歴史的文脈やその技法でその意味と価値を「誰もが分かるように」語れば語るほど、それを観た時の私の内部で生じたあの感動、その経験の意味が減ずる、もしくは外部に流出してしまうかのように感覚される。
それはあなたという鑑賞者がいて、その内部を大きく変容させ、そしてそのことによって始めて価値が生じたはずなのに(売れない画家のまま生涯を閉じたゴッホはそれを見て感激したに違いない)それは今や私という鑑賞者なしで、無関係に客観的に価値が成立している。誰もが認めざるをえないという形式によって。
ゴッホはこれほど有名なので、それは個人のみならず、人類の認識さえあるいは変容させたといって良いかもしれないが、すでに現在はゴッホによって変わった世界にあり、変わる前の世界は失われている。
なのでそもそも変容の最中の感動にはほど遠い、という事情もそこにはある。



アリにとっての情報と知識

http://www.antroom.jp/cms/page/ant004/
アリは様々な手段でコミュニケーションをとっていて、人間に勝るとも劣らない社会的な生き物だ。
どこどこにエサがある、という情報はなんらかの形で仲間に伝達される。
その情報を受けたアリはそれによってその後の行動が変化する。
情報はアリの脳?で解釈されなんらかの行動として出力される。
エサがあるという情報もアリを変えたといって良いが、それら一連の行動後のアリと、その前のアリとの差分はほぼない。
ところがこの繰り返しのなかで一匹のアリが、どうもエサの見つかりやすい場所とそうでない場所がありそうだということで、人海戦術的な探索をやめて、予測的に行動し始めたらどうか。
そしてそれがうまくいきそのアリの種の行動様式として定着したら、それは「知識」といってよく、そして知識を得る前と後ではアリはその存在様式とでもいうべき何かが変容していると考えられる。要するに情報を解釈するアリの内容それ自体が変わったのである。
以下「情報」と「知識」はこのような意味で使い分ける。


何がおれにとって情報となるか知識となるか、はおれ次第である。
芸術体験と同じく選択はできないが、かといってあらかじめ何かが情報であったり知識であると決まっているわけではない。
今までの人生経験なり記憶なりの積み重ねてきたもの次第、というべきか。
一時的に観れば何だって変化させている、とも言えるのだが、結局は何らかのきちんとした基盤なく起こった変化は、歴史の風雪に耐えられず元に戻る。
人間の内部は驚くほど環境的であり複雑怪奇であり、それらがバランスと統一性をもって、いつも変わらぬ「オレ」を立ち上げているのは奇跡のようでもある。
が、結局のところ自分の変化に自分で気づいてないだけの話でもあったりする。
これは有名なバレリーナの影絵の錯視に通ずるが、一度そのように見えたら、かつて違うように見えていた感覚は失われてしまう。
つまり選択できないだけでなく、どう変化したかを自分で把握することさえ困難なのだ。
まぁ人間の内部なんてものはチューリングテストよろしくその出力から推察されるだけのものでしかないのかもしれないが。


問題は科学的成果である知識である。
個別的には気に入らなければ情報として扱って構わないが、科学の方法は社会に対して無条件に強制的な変化を及ぼす。
その変化の軋轢がガリレオを死刑にもするし、美女を断頭台に立たせたりもするが、とにもかくにも一旦成立したらどうにかしてそれに人間は適応しなければならない。なんせ歴史や個別性を超えていつでもどこでも成立してしまうのだからね。それは予め歴史の風雪に耐えるように設計されている。
それは社会にとってはドラッグに近い。社会の準備など待たずに効いてしまうので、例えば核兵器の開発のように危機的な状況も生み出す。
「自然科学」とはよく言ったもので、それは非文脈的な自然災害のような理不尽さをもって社会を変えうる。
なんとなく前から、このトータルなバランスを考えない、優先順位という発想のない知識の発展は迷惑極まりないと思っていたのだが・・・
しかしこの本はその先、理不尽さや偶発性こそが生物の「歴史」そのものであり(グールドの主張)あるいは人間性というものの最後の砦である、という話になりそうな展開。
だがもう少しこの「説明と理解」について考えたいのでまた改めて。