(2)文化人類学的の不能

こないだテレビ観てたらなぜか放送大学でチャンネルが止まって、それが文化人類学の講義だった。
インディアンの古老に話を聞きにいった様子が映し出され、やはりというかなんというかホントに好きだね。インディアンの古老が。
それで食べているプロの古老とかもういるんじゃないかと疑うレベル。
で、ふんふん聞いてたら最後に講師の人が
「最近この界隈では文化という相対主義的な手垢にまみれた言葉でなく『存在論』というのが流行ってます」
というような意味のことを言っていて、もはや哲学になってるな、と思う。


講義「なぜ帰宅後にすぐ手を洗うのか――文化人類学の効用」 小田亮 - garage sale

 さて、家の外から帰ってきたとき手を洗うという日本の習慣も、トレーラーの外で排泄したり体を洗うという英国のジプシーの習慣も、居住空間の内と外とを象徴的に区切るものだということを見てきましたが、それらは、合理的根拠のない「迷信」などではなく、空間を区切るという「表現行為」なのであり、自分たちの環境をそのように区切って表現しつつ、自分たちの世界そのものを作り上げていく行為なのです。したがって、その世界の区切り方に根拠がないからといって、それは「迷信」だからやめるべきだということにはなりません。もともとどのように自分たちの世界を区切るか、そして世界を意味あるものに作り上げるかといったことに、このように区切らなければならないという根拠などないのです。大事なことは、根拠のない「迷信」を捨て去ることではありません。そうではなく、同じように根拠がないのに、自分たちの区切り方や世界の作り方は合理的な根拠があると思い込み(上の例で言えば、帰宅して手を洗うのは衛生学的な根拠があることだと思い込み)、そのようには世界を表現しない文化や人びとに対して、「迷信」に囚われた人びとだとか衛生観念がない不潔な人びととラベリングをすることこそ、「迷信」に囚われていることだということに気づくこと、これが大事なのです。

日本人が帰宅後すぐ手を洗うことの文化的意味についての講義、ということだけど主題はともかくとしてこの部分が気になった。
文化人類学的な考え方を身に着けるということが『個別の文化としての自文化の相対化』であることは理解できる。
理解はできるが自文化を相対化する視点、立場に立つことは極めて危うい。
いったいそれは「どこ」から見た視点なのだろうか。
自文化と異なった衛生観念を持つ人々を不潔と見なす感性こそを「迷信」と切って捨てる。
これは日本人が日本人に対して言っているからそれほど違和感がないが、もし日本人の文化人類学者がジプシーの人々に対して同じことを講義し「啓蒙」したらどうなるだろうか。
つまり「あなたがたは白人の生活習慣を自分たちの考え方と異なるからなどといった理由で汚らわしいと言うが、それは非常に良くないことで、迷信に他なりません」と言ったとしたら。
もちろん文化人類学者はそんなことは決して言わない。いや言えない。
インディアンの古老の話がいかにスピリチュアルで、近代人から見ればばかばかしい話だったとしても、決して否定することはないし、相手の立場に立って理解しようと最大限努める。
その様は精神病患者に対する精神科医の立場にとてもよく似ている。
違うのはその「症状」を無くすために精神科医が薬を処方するのに対し、文化人類学者はタバコやライターなどをお礼に差し出すことぐらい。
文化人類学のやろうとしていることは文化交流や相互理解ではなく、観察者からの影響を最大限最小に抑えたなるべく純粋なサンプルの採取である。
もしジプシーの人たちに「自文化を相対化する視点」など与えてしまったら、その価値観、世界観は大きく揺らぎ変質してしまう。
だから文化人類学者は薬に相当するような相手を変えるすべを何も持たず、ただ黙って話を聞く以外何もできないが、実は精神科医だって事情は同じであったりする。


『理不尽な進化』によると科学とは、特定の人や文化からの視点を離れて、そして人間的視点からすら離れて対象を「絶対的に」捉える営為であり、方法である。(完全な視点=あらゆる視点からの描写、と対照的)
精神病理学もまた科学であるゆえ「症状」について正常を定義することはできない。つまりは自らの精神状態もまた一つの症状に過ぎないという、文化人類学者にとっての文化と同じような相対化した視点を基本とする。
なので本来的には精神医学という異常を正常に戻す営為は成り立たないのであるが、ある特定の症状を持った人が社会で生きていくことが非常に困難で本人(もしくは社会側)が困っている、という状況が薬を処方して相手を変えていい根拠となっている。
だがドラッグを取り上げてしまえば、精神科医にいったい何ができるというのだろうか。
ヒトはなぜ衣服を着るのか 小田亮 - garage sale

専攻が文化人類学だと、世界の珍しい衣服などについて教えてほしいという依頼や問い合わせを受けることがある。人類学者ならば、例えばマルケサス島の人々の身体装飾など風変わりな「衣」の話ぐらい知っているだろうということなのだろう。けれども、そのような話の大半はいまや過去のことになっている。そこで、今はどこでも洋服を着ているし、若者たちはどこでもTシャツにジーンズですよ、と答える


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そもそも絶対的視点に立つ、立ち続けることは極めて困難であり、それは長年の修練とそのための多大なコスト(一人の学者を作るのにかかる教育費など)による方法論やスキルがあって始めて成立するものだ。しかもそのようなきちんとしたスキルを持ったプロの学者にして中沢新一のように「あっち側に行ったっきり」になってしまう人もいる。
その「どこからのものでもない視点」は一人の人間としての立場を危うくさせ、不安にさせる。
文化といわず『存在論』などと哲学みたいなことを言い出すのは、対象でなく科学者自身の存在論的不安の表れ「症状」なのではないかな。


今ではその科学的成果は社会の良識になっている。
「色々な価値観や文化を認めよう」「多様性はとても大事なことだ」
学問的修練や方法論のない普通の人にとってのそれは、何の内実のあるものではない空疎なスローガンであるが、実は修練を積んだ学者にとってもそれが空疎であることになんら違いはない。
そこに人間的な価値や意味を与えることは科学の仕事ではないのだ。


「説明と理解」問題に照らせば面白い事実がある。
精神病者にその病気の学問的説明をどれだけして、相手がそれをどれだけ詳しく知ったところでそれだけでは症状はなんら改善されないということ。
これは説明=科学的分析と理解=人間の世界体験との間の断絶を示すもっとも良い例だと思う。


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