(3)人間にとっての温度とは何か

  1. http://matome.naver.jp/odai/2139987707849953901
  2. お前ら「温度」って何かきちんと説明できるの?
  3. http://homepage3.nifty.com/iromono/PhysTips/maxtemp.html
  4. 温度とは何か:負の絶対温度をめぐる疑問など - Active Galactic : 11次元と自然科学と拷問的日常


温度とは何かという話は科学的には驚くほど難しい。
分子の振動が熱になって、この熱から温度に到達するまでの道のりは果てしなく、4に至っては何一つとして理解できない。
しかも最終的には温度とはこれだと指し示せるものはないという結論のようだ。
こういう話はどこまで人間的に理解できるだろう。分子の振動が熱になるというのは、人間も運動すれば代謝が上がって暑くなる程度に理解してるけど、分子レベルはもうすでに人間の実感を超えていると思う。
生物を見るときの最小単位は細胞なので、そこが実感的に語れる限界だろう。

http://enokidoblog.net/sanshou/2013/08/9616

『温度』というものは、分子の運動から現れる二次的な概念でした。基礎理論の段階では存在しないので、私たちの幻想であるといってもよいでしょう。


物理学が幻想と結論づけたところで、人間にとっての温度が死活問題であることに変わりはない。
恒温動物の人間にとって温度の調節は生きていく上で必要不可欠な要素なのに、なぜか五感の中に温度への感受性がない、なんとなく触覚に含めてしまっているのはどういうわけだろう。
風邪を引くと熱が出る、というのはウィルスがもたらした症状ではなく、高温にしてウィルスの活動を抑え同時に白血球を活発にし殲滅する、というミツバチがスズメバチを撃退するやり方に近い驚くべきシステムだが、けっして意識してやっているわけでなく勝手に熱は出るし、かきたくもない汗もかいてしまう。
つまり温度に対するリアクションの大部分が無意識下で自律的に行われているから、というのがその理由の第一。
もう一つは温度の感受性が暑い、寒いという高低だけでバリエーションがない(ように思われている)というのもある。音なら同じ音程でも質感はまったく異なるしそのバリエーションの豊かさ、それを聞き分ける聴覚の繊細さは言語を成立させてもいる。(ちなみに「高低」という概念があるのは視覚と聴覚と温覚だけだ。これはなぜなのか)
でも考えてみるにうっすらとなら温度にも質感はあるんだよね。
例えば同じ温度でも気温と水温はまったく違った解釈がされる。お風呂は40度前後で体温の限界に近い数値がちょうどよくそれ以上は熱くて入ることもできないが、気温ならまだまだ全然余裕。
というか日本語で「熱い」と「暑い」を書き分けるのは質の違いをまさに表しているわけだ。
ただし同じ温度、というのは客観的尺度としての温度計があるから分かるわけで、人間の内部的温度計にとって重要なのはそれが生命維持にどのように関わるかなので、水温を高く感じるのは発汗による放熱ができないからとかそういう理由がある。つまり同じぐらいの生命的危機を同じ熱さとして感受する必要があるわけでこれは質の違いというより物差しの違いといったほうが的確かもしれない。
さらにいうと大気と水の違いは触覚で感受できるものなので、温度のみからこれらを区別できるかは不明。できそうではあるけどね。熱の移動スピードとかで。
こういう感じに温覚と密接な関係を持っているのは触覚以外に味覚もある。味は冷たいと薄く感じ温かいと濃く感じる。冷めるとまずく感じる料理はたくさんあるし、逆に冷たくないとおいしくないものもある。明らかに人間は温度を味わっているわけで、他の感覚器と独立に結びついている時点でやはり触覚と温覚は分けて考えるべきものである気がする。
で質について考える上で面白いのは「温もり」という感覚だ。これは要するに自分と同じぐらいの温度の、それも同じような生き物に対する感覚だろう。哺乳類などという科学的分類など知らなくても、温もりを感じた時の、ある種の一体感というか、安心感というか、ああ同じ生き物なんだなと実感するあれにはかなり特別な意味づけがされているのは間違いないだろう。
というわけで一応温度にも多少の質感、バリエーションは感じ取ることはできると思う。




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五感に入っていない以上にあるいは問題かもしれないのは人間の三大欲求にも入っていない、ということではないだろうか。
三大欲求とは生命維持に不可欠な、それをしなければ生命として死んでしまうという本能的な、そして最も大事な欲求ということになっているが、オレには部屋で好きなだけぬくぬくしていたいという強い欲求がある。
そんものないよという人にも住処はある。巣を作る生き物にとってはそこがその生物にとっての最適な温度に保たれている必要があり、安心感と最適な温度は密接に関係している。くつろげる空間や瞬間は人間が生きていく上でとても大事な要素だ。
そんなことしなくても死なない、という人は人間が自殺する生き物であることを忘れている。生命維持について考える時、体温を一定にする必要性とそのための複雑かつ多岐に渡る機能も大事だが、人間が社会的動物であり、その中で生きていくほかない存在であることも同じぐらい大事なことで、社会的死は生命としての死に直結しやすい。
人は温もりを失って死ぬ。
これは字義通りの意味であるし比喩でもある。


というわけで「ぬくぬくしたい」には「食いたい」「したい」「寝たい」の三大欲求に十分並び立つ資格があるとオレは思うのだが、なぜこの欲求がはっきりと確立されていない、価値が認められていないかと考えるに、それは温覚と同じように他の欲求にまぎれてしまっているせいだろう。
寂しい時に温かい物を食べると心が温まる。恋人と抱きあっても、ベッドでぬくぬくしていても同じ。
温度は三大欲求のそれぞれに密接な関係を持っている。
このことは見ようによっては並び立つ以上の意味がある。
人間は温まるものをこそ欲しているんじゃないだろうか。


温度への感受性は明らかに過小評価されている。
人は好きな時にいつまででもぬくぬくできる場がありさえすれば自ら命を絶つなんてことはしないように思うし、人間的な欲求の基礎は温度にこそあると思う。