人はなぜ山に登るのか

「そこに山があるからだ」
と登山家が答えたという話はあまりにも有名。
これが名言として名高いのは、それ(ここでは山に登ること)が他の何者にもよらずそれ自身として価値があることを、極めて簡潔に言い表すことに成功したからだろう。


『二コマコス倫理学』とはアリストテレスの言葉を息子のニコマコスが編纂したものらしいが、この中でアリストテレスは善や幸福、愛や魂といった今となっては安っぽいドラマか宗教でしか語られることのなくなった諸々について考察している。

なかでも最終の目的があるとするならば(実際なければならない。もしなければ目的の系列は無限に進むことになり、私たちの欲求は空虚なものになるから)、それこそは最高善でなければならない。
最高善は政治(ポリス)の領域にある。善こそが政治の目的でなければならない。したがって、ここでの研究は一種の政治学的なものといえる。
〜中略〜
他方、最高善は究極の目的だ。究極ということの定義は「常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることのないようなもの」である。この条件を満たすと考えられるのは幸福(エウダイモニア)である。

幸福が究極の目的である理由、それは私たちが幸福を望むのは幸福それ自体のためであって決して他のためではないからだ。私たちが名誉や富を求めるのも、確かにそれらのためでもあるが、同時に、それによって幸福となると考えているはずだからだ。
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-aristoteles-ethica-nicomachea/

人間の行うあらゆる行為や選択に「善」への希求を見て、それらの求める最終の目的は最高善にあるとする。
そして最高善とは究極の目的と考えられる幸福そのものである、というのが『ニコマコス倫理学』における最初の大前提だ。
現代人ではもにょもにょと口ごもってしまいそうなことをずばり言い切っていて痛快。
科学は始点にはトートロジーを認めてるのに、終点としてはなぜか認めない。というか終点を打とうとしない。
アリストテレスはここでする話は政治に関するものであり「素材の許す以上の厳密性を期待すべきではない」と制限つきの話であることを断わっている。さらに最高善は共同体として最終形態の「ポリス」に属する、と本人はそう信じていたのだろうけども今となってはそういう時代だったという他ない、意図的ではない制約もあった。
要するにそのような様々な制限があることを前提にすれば、最高善やら究極の幸福を規定することは可能なのだ。
そして「常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることのないようなもの」はトートロジカルに表現するしかないものなのである。



中庸の徳

なぜかアリストテレスの考えは「徳」「中庸の徳」と儒教の言葉で訳されている。
儒教における「中庸の徳」は結構難しい概念で単純ではないらしいが、一般的な理解に近いのはアリストテレスの考えのほうだろう。
苦痛への感受性が不足していると「無謀」過剰だと「怯懦(おくびょうで気の弱いこと」適度にあれば「勇敢」、というような感じで過不足のないものこそがすばらしいと考える。
面白いのは「徳」に対する考え方で、卓越性とも訳されているそれは、他の動物にない人間固有の能力、機能であるとしている。
そしてそれを共同体のために発揮し役立てることがすなわち善であると。
このあたりの言葉の関係を自分なりに要約するとこうなる。
人間の体は細胞からなっているが、それらは集まって特定の機能を果たす役割を各々担っている。例えば心臓は一定のリズムで収縮し、血液を全身に循環させる役割を持っているが、心臓が他の臓器にない「卓越性」をもって体の中でその機能を十全に果たしていること、がその人にとっての「善」である。一方体を激しく動かしたりすると鼓動は早くなったりするが(それは全身に酸素が「不足」することなどによって起こるが)そういった事態は速やかに収束させ、早すぎず遅すぎない一定の適度なリズムをなるべく保つことが心臓にとっての「中庸の徳」となる。
そしてこのスケールにおける最高善とは、そのように様々な臓器などが適度に活動連携することによって統一性をもったある人間が「人間的活動によって」幸福を目指すことそのものである。
ここでは「なぜ山に登るのか」に替わって「なぜ心臓は脈打つのか」と問わなければならないだろう。


と大体このような理解をしたが、アリストテレスの考えはそのまま現代に応用するわけにもいかず、そこには様々な疑義がある。

  • なぜ「善」は明らかに中庸の徳ではない「最高善」を目指すのか。ちょうど良い「善」ではいけないのか
  • 幸福を目指す政治という観点から民主制は最も良くないものとされている。現代ならポリスに替わって民主主義国家に「最高善」がある、というしかないがこれは現代人でも無理がある。民主主義ではなぜだめなのか
  • 当時は奴隷制であったことと関係してると思うが、幸福以前に生き残るために必要な諸々に対してほぼ言及がなく、明らかに低劣なものとして切り捨てている。それらを奴隷などが担っていたからこそ、貴族は「真」「善」「美」など生きるのに必要ないことを追求できたし、アリストテレスもそうだ。こういったものはとても許容できるものではないが、一方で現代日本の貴族的心性のなさ、はいかにもつまらない。人間を奴隷にすることなしにはこのような心性は確立できないのか
  • 今は「生き残ること」と「幸福の追求」が激しく対立している。どちらかを取るとその分だけ片方が失われてしまうことが多いが、なぜこれらは一致しないのか

アリストテレスに引っ掛けてこんなような普段言挙げされることの少ない善やら幸福やら愛などについてこれからちょくちょく考えてみることにする。