貨幣とは?経済とは?

HPO:個人的な意見−『見えない自由がほしくて、見えない銃をうちまくる −ネット上の貨幣としての認知にインフレーションは来るのか?−』


リンクやトラバも含めて非常に興味深い考察をしているひできさんの記事。
ここに書かれている『認知貨幣』とは、人間が元々持つ「認知を求める欲求」によって成り立つネットの世界のコミュニケーション、認知の遣り取りを貨幣に見立てる、という意味で実際の貨幣としての意味ではない。まだあくまで見立ての段階だが、「ネット上の認知貨幣の例」は満足度も含めてとても面白い。やはりオレと同じでブログでのトラックバックに最も価値があると考えておられるようだ。その他の点もかなり同意できる。
とりあえずそこへのトラバやリンク先を参考に考えた事。




貨幣の定義
ここで貨幣の基本的な定義がされていて、交換、価値の貯蔵、価値の尺度、と三つの機能を提示していてとても分かりやすい・・・が、しかしこれら三つの機能は決して等価ではないという点に注意が必要だと思われる。交換ができるのも価値の貯蔵ができるのも、実はその前提に価値の尺度としての機能があって初めて成り立っている。だから貨幣の本質は価値の尺度にある、と言えるわけで前回言った「価値のメディア」というのがやはり貨幣(「通貨」と広義では同じ意味、みたいです)の実体であると思う。
そして新しい貨幣、というものを考える上で重要になるだろうと思われるのは、ひできさんも言っているように価値の尺度がこれからは極めて個人的なもの、すなわち「私にとっての価値」というものになっていくと予想される点である。つまり客観的で一元的な一つの基準ではない多様な価値の軸を前提にした、そういったシステムを考えなければいけないと思う。そこが難しい、というか面白いとこなのだと。




PICSY
とても興味深い仮想通貨の試み「PICSY」というのが紹介されてます。「伝播投資貨幣」という意味なようですが、なるほどそのコンセプト自体は面白い。商品の評価軸として「瞬間的に幸福量を高める側面」と「再生産に役立つ側面」のうち、二つ目の「再生産に役立つ側面」すなわち「社会への貢献度」をきっちりする評価する。そしてその価値の伝播。うまくいけば良い循環になる。しかし「社会への貢献度」これを評価するのははっきり言って至難である。上でもいったがそもそも何が貢献になるか、という価値基準自体が一定ではない、とオレは考えるのでそれを一般的に、客観的に果たしてどの程度決められるかには懐疑的である。
だが仮にそういう問題を無視して、これがうまくいったとして、それがどういう状況を作るかというのを考えると結構これが面白い事になりそうなのだ。ちょっと引用。

何かサービスを提供することを「貢献」と呼ぶならば、医者が患者を治すことも、ラーメンを売ることも、「貢献」ということになります。医者が患者を元気にし、元気になったことにより患者がラーメンをサービスできるわけですから、「貢献」の伝播が起きていることになります。「貢献」の伝播と収入の伝播はちょうど逆向きの流れになります。

 貢献の伝播:医者→患者→ラーメン屋の客
 収入の伝播:医者←患者←ラーメン屋の客

これがこの貨幣のシステムが想定している伝播のイメージだ。この伝播が何らかの評価システムによってほぼ自動的に行われ、貢献の分がどんどん伝播していくと・・・ちょっと考えれば分かるがその伝播には「終点」というものが基本的にありえないのである。ここでは直線として描かれているがこれは間違いなく円の構造、循環になる。だとすると究極的にはそれが実体としての貨幣を持つ必要がまったくなくなってしまうのではないかという事。それはいつまで立っても「数字」のままで社会の中をひたすら循環するのみ。そういうものになるような気がする。
だがこれもよく考えてみると本来の貨幣とはそういうものなのかもしれない・・・単にひたすら回っているだけで決して実体のあるものではない、と考える事もできる。
まぁしかしいずれにせよ貨幣の本質が「価値の尺度」にある以上、社会の貢献をどう価値付けするかそこがやっぱり難しいんじゃないかと思う。




H-Yamaguchi.net−『ネット通貨としての「認知」:さらに修正』
ひできさんの提起した認知通貨のインフレ−デフレに関連したトラバ記事。元々は正の循環、負の循環といったような意味合いだったが、こちらでは本来の経済的なインフレ−デフレに関する考察をされています。オレは経済にはまったく弱いので詳しい事は分からないがどうやら結論的にはインフレを起こさない為には貯蓄をせず徹底的に循環させた方がよい、ようである。その点PICSYのひたすら循環する貨幣のモデルはやはり面白い。そうだとすると貨幣の定義における「価値の貯蓄」という機能に関しては色々再考が必要なのかもしれない。




■「経済」と「感情」
ただここでちょっとオレのイメージする貨幣、その大きな流れとしての「経済」に対するイメージを書いておきたい。
ぱち研⑧−『メタ脳化プロジェクト』でいったようにネットの世界は脳に対するフラクタルな構造になっていくとオレは考えている。
もしネットの世界に何らかの形で新しい貨幣というものが出来るとしたら、それは果たして脳のどんな機能と相対的に見る事が出来るのだろうか、という視点が重要になると思われる。
貨幣とその循環が生み出すマクロな視点から見た「経済」これをオレは脳における一つの機能「感情」と考えている。社会における経済、と脳(人間)における感情、は極めて似た性質をもっているのではないかと思っている。
例えば経済の動向はおよそ優れた評論家といえども正確に予測する事はできないとされている。明日どんな動きをするのか、究極的には誰にも分からない。従ってそれをコントロールする事も一般的に極めて至難、と思われている。
同じ事が感情についても言える。明日自分がどんな感情、心の動きになるのかそれを正確に予測する事はまず誰にもできない。そしてそうであるがゆえに感情のコントロールも一般に非常に難しい事とされている。あまりにコントロールしすぎて感情を表現できず内に溜め込んでいくと人は「鬱」になったり、あるいは逆に「躁」になったりしてしまう。こういう極端な感情になってしまう事は良くない事とされていて感情はある程度の緩やかなバイオリズムによるバランスが保たれた方が良い、とされているわけだ。
同じ事が経済についても言える。それを国家が完全にコントロールするとインフレやデフレを起こしがちで、ある程度「市場」の自然な動きに任せた方が良い、とされている。そしてやはり経済においても、それは常に変動しておりある程度の幅の中での緩やかなバイオリズムによるバランス、が重要とされている。極端が嫌われるのだ。更に経済は上手にコントロールする事で、人を動かす「動機」や活発な活動を促す「目的」となり、豊かな社会を作り出す事ができる。
同じ事が・・・ってもういいか(笑)
とにかく「経済」と「感情」は非常によく対応すると思うのである。そうだとするとネットの世界における貨幣、およびそれが作り出す「経済」を考える時それが果たす機能としての理想像は「感情的な働き」というものになると考えられる。より脳的、すなわちより感情的働きになる事を求められているのではないだろうか?


以上がネットの世界の貨幣(経済)についてオレがおおよそイメージしているものだが、もしこれが正しいとするとこの問題がいかに難しい問題か、というのもまたよく分かるのではないだろうか?
なぜなら感情こそは人類をもっとも苦しめてきた「原因」でもあり、そして現代の科学においてもまだまだ解き明かせていない大いなる「謎」であるのだから・・・。