フローな話

ブログの面白さはあくまでフロー性にある、とオレは思っている。(・・・3回目)
このフロー、ストックについては既に色々なところで語られていて同じ話の繰り返しになってしまう・・・がそれでもあえて書いてみようと思う。この記事の内容自体がブログにおける「同じ話の繰り返しの意義」を主張するものだからである。


まず後から分かったおおよその経緯としてのこのフロー・ストック論争?の流れ。時系列で特に面白かった記事をピックアップ。

◆1/29 http://www.asvattha.net/soul/index.php?itemid=409
├1/29 diary.yuco.net:フローとストックのはなし
├2/20 http://firewood.txt-nifty.com/bbc/2005/02/blog_developmen.html
|└2/21 知的ストックとフロー | 一日一喝
└◆3/3 過去のことは忘れなければならない、あるいはknowledgeの生まれる場所: R30::マーケティング社会時評
 ├3/3 http://humptydumpty.tea-nifty.com/kakueki/2005/03/post.html
 ├3/3 http://newmoon1.bblog.jp/entry/147884/
 └3/7 http://d.hatena.ne.jp/gachapinfan/20050307
  └3/9http://blog.livedoor.jp/harmoniodeon/archives/15987290.html
4/6 http://blog.goo.ne.jp/junyastone/e/fb35f2ae70ac4df87d83c9aafc40abe0
4/15〜大ブロ式〜:ブログの記事は「情報」ではない(←ひそかに参戦)
4/18情報蓄積・限界性 - log for logs(追加)

どうやら論争?の発端はhttp://www.asvattha.net/soul/のcharlieさんの記事だった模様。ここでブログのフロー性を否定するような見解が提示され、その後特にR30さんの記事あたりから「ブログのフロー性悪くない」という反論が色々出てきた、というような流れ。
で、何が問題かってこれが「論争?」とあくまで?付きで言わざるをえない、すなわち「議論にも論争にもなってない」という事である。こんなに有意義な議論なのに相互の遣り取り、が殆どない。その理由ははっきりしていて発端になったcharlieさんがこれらの反論などに対して一向にまったく何の反応も示さないから、だ。そしてそこに自らの主張との激しい矛盾を感じたのでちょっと絡んでみる事にした。
まずcharlieさんの主張。

ブログって本来、情報のストックができあがることが意義だったはずなんだけどな
〜中略〜
ネットにおけるコミュニケーションは、自分の知る限りでは、ストック性よりもフロー性の高いものに人気が集まっている気がする。半年前の議論がほぼ参照されることなく、「第一回目」が延々と繰り返されているわけだ
〜中略〜
フロー性の高いものを垂れ流すことが出来る環境は、どんどん送り手の側への意識を狭めていくことの出来るアーキテクチャを要請する。

これらの認識自体は特に間違ってるとかいうわけでもないとは思う。ただもちろんオレとは認識が違うのでとりあえずはまずその認識の違いから。




■フローなブログ
ブログからフロー性ははずせない。前々回、前回にも書いてるが改めて。
一番重要なのはブログの記事は後からいくらでも修正、変更が可能である点。従ってそのままではいつまで経っても固定化した情報とは言えない、すなわち純粋なストック足りえないという事。これをストックにするにはやはり別な形式に変換する他ない。
もう一つ日付が付与されている為に新しさに価値が置かれてしまう点。ブログは更新頻度が命、という思想の根はここだと思う。これも初めから与えられていた形式。(まぁ不満なんだけど笑)


■繰り返す事の意義
これについては既に色々な人が書いているが・・・オレも言いたい(笑)


【個体発生は系統発生を繰り返す】
生物の基本は同じ事の繰り返しにある。同じように発生して同じような生を営みそして年老いて死んでいく。結局同じようなもんなんだから生まれてくる意味なんかない、とは言えない。ミクロで見れば同じようでもマクロで見ると実は進化している。大概一直線の進化はすぐ行き詰る。何度も繰り返しながら進化すると長く持つ。
更に学問の世界で「論文」と言われているものの内容のその9割以上は過去の業績の繰り返し。引用。オリジナルな所なんてほんの少し。やっぱり何度も同じ事を繰り返しながらちょっとづつ進化してるのである。


【万物流転】
「万物は去りつつあり、なにものも止まっていない」とヘラクレイトスは万物流転の法則を唱えた。
対して日本では鴨長明が「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」と詠んだ。
指し示している内容は同じような事かもしれない。しかし鴨長明に対して「そんな事はとっくの昔に外人の偉い人が発見しているよ」などと言えるのか。同じ内容の事を言うのは意味の無いことなのだろうか。
ここで指し示されている内容、概念はいわば固定化された「情報」であると考えられる。しかし人という生きているシステムを通してなされる語り口は多様であるのが当たり前。これが常に変化する「実体」の本質なのだと思う。
当然同じように見えても詳細は違うし、この違いが新たな発想の起点になるかもしれない。なにより重要なのは様々な語り口で語られる事でそれを理解する人が増えるという事。たった一つの語り方では一部の人しか理解できない。妥当な認識であればより多くの人が理解した方がいいに決まっている。


■フローとストックの関係性
上の鴨長明の洞察はフローとストックの関係を理解する上でとても示唆に富んでいると思う。これは元々経済学の概念らしいがそこでの例えでも「水」が使われているようだ。
いずれにせよブログからフローを外す事はできない。聞くところによるとブログをやる人の9割は一年以内に止めてしまうようだ。つまりは新陳代謝が物凄く激しい。ちなみに人間の体も一年経つと構成要素は分子レベルで9割以上入れ替わってしまうらしい。
ここでの固定化した情報は「遺伝子」で常に変化する実体は「細胞」。(養老孟司著『人間科学』より)


【ストックは5%】
ストックになるものなんてどの世界でもほんのちょっと。小説だろうがマンガだろうが映画だろうが「古典」というストックとして残るものがどれだけあるのか。5%もあれば十分過ぎる。実際はもっと少なくてもいいし、それで「業界」は持つ。もちろんこのほんのちょっとのストックがあるかどうかは物凄く重要だけども・・・殆どがフローであっても全く問題ない。問題はむしろストック足る5%の方であると思う。


――――



フ〜、大体こんなとこです。ちなみに実は上に書いた事の9割以上は養老先生が色んなとこで書いてる事のパクリだったりする。ソースなんて一々覚えてないので断れなかったが、(というかあまりにも色んなとこで同じ話をされているから、というのもある笑)オリジナルなんてあってもほんのちょっと。それでも意義はあると思って書いた。
だがこれは必ずしも反論というわけでもない。あえてここではフローの意義の方を語ったけどもオレ自身最終的にはストックになって欲しいと願って記事を書いてもいるし、現状ではそういう方面の整備はまだまだ出来ていないというはその通りだと思っている。だから問題はここから。


charlieさんがフローを「垂れ流し」などとバカに出来るのは自らが5%足るストックな記事を書いている、という自負があっての事だろう。ホントにそうなのか、なんて事はここではどうでもよい。
ブログの記事を知的蓄積となる有意義なストックにするような整備、というものはそれを見ている人にとってブログ界が「フローのみではない有意義な議論、ブログならではの面白い遣り取りのできる世界である」という認識が前提にあって初めて成り立つものだと思う。そしてこういった認識ができる為には一つでも多くその例証がなければならない。有意義なストック足りえる例証が。
で、この一連のブログ・ストック論争?の記事の流れはオレにとってはかなり興味深かったし面白かった。だがしかしストックとしては・・・中途半端といった印象。それはこれらの流れに「やり取り」が殆どなく一方向にしか流れていない、議論としての「循環」がなされていない為、全体としてはぼやけてしまっているからだ。争点は色々でてきている気がするが特に詰められる事なくそれぞれ好き勝手に語っている、という印象になってしまっていると感じる。
だからこれがより有意義なストックになる為にはフローを否定したcharlieさんがやはりきっちり反論なり結論なりまとめなりすべきなのである。それが何でなんの反応も示さないのか?
大体この発端の記事自体は単なる感想、愚痴のレベルのフローな記事なんである。それでもとにかくこれだけたくさんの記事を生み出して「問題提起」としては成功した。(・・・羨ましい限りだ)
だったらこれを良質なストックとする為にやらなきゃならん事があるんじゃないかと。でなけりゃそれこそ単なる「垂れ流し」じゃねぇのか?と。よくそれでフローをバカにできたもんだな〜と。そもそも5%足る自負を持った人間が95%を否定する愚、に気付かんのかと。
そういう風に思った次第。果たしてこういった態度がストック足る上でプラスになるのかはなはだ疑問に感じたのである。
もしブログ界をより有意義な世界にしたいのだったらこういう面白い議論には積極的に絡んでいく事で見ている人に面白いと思わせなければならない。最初はフローでまったく問題ない。ストックはあくまで「結果」であると思う。
というわけでこういったきちんとした反論などにもあんまり反応しないブロガーを、沈黙を誘発し単なる垂れ流しとしてのフローな記事を助長する存在として「まぐろブロガー」と命名しておきたい。


と何だか凄い長文になってしまったが要するに言いたい事は「もっと反応しておくれ」って事。お忙しい方のようだからしょうがないとこもあるが、それだったらフローをバカにする資格なんてそもそもないという事。
以上反論&批判でした。




追加:フローな話(2) - ぶろしき


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4/28追加:Blog論2005年バージョン(2) - My Life Between Silicon Valley and Japan
「そんな事はもうとっくに分かっている」という専門家の視野の狭さに対する突っ込み。