前回までの補習〜情報−実体の補足〜

鋭い指摘満載のコメント&トラバありがたいです。漠然としてたものがくっきりしてきたり、改めて謎が深まったり、まぁとにかく色々考えたんで補足とか疑問、反論に答えつつ補習しときたいです。


まずフローな話に付いた
http://firewood.txt-nifty.com/bbc/2005/04/flow_to_stock.html
に関して。特にProving grounds of the mad over logsのmakiさんが挑戦状(笑)を受け取ってくれたのでこれにきっちり答えておきたい。

氏は、「実体と情報」を「フローとストック」と対比させ、各エントリの初期状態が「実体」であり、トラックバックやコメントによって「情報」となるという展開をしている。
しかし私は、「実体と情報」は、本質的内容・エッセンス・真意としての「情報」と、媒体によって伝達される誤解を含んだ「実体」という、情報とは何か(あるいは情報を伝達するとはどういうことか)という定義であり、一方、「フローとストック」は、情報の真意が「役に立つのか」という内容に対する評価なのではないかと思う。

makiさんがするどく見抜いているように〈ストック−フロー〉と〈情報−実体〉概念は実はかなりずれている。おっしゃるように〈ストック−フロー〉は内容に対する評価という意味合いを多分に含んでいる。だからあの記事における反論はホントはこの分類自体に対する、それでブログを捉える事自体に対する異議申し立てだったのである。(どうもオレの反論は分類自体に対するものについなってしまう模様・・・)
だからそれに変わる分類として、ブログというもの自体に対する評価軸として〈情報−実体〉というのを提起して「ひそかに」スライドさせようと目論んだわけなんですが(笑)ただどうも〈情報−実体〉概念に対して誤解が、というか説明不足だった感があるのでその辺をもうちょっと突っ込んでおこうと思う。
で、まずなぜ〈ストック−フロー〉概念がまずいのか、というところからいうと理由は主に二つ。

  1. その評価軸で既存メディアと対比するならブログに勝ち目はない。ゆえに何ら有意義な結論はでない。
  2. そもそも何がストックになるのか、なんて基本的には誰にも分からない。

という事。
1についてはもう言うまでもない気もするがブログは「普通の」人が簡単に特に何の目的もなくやっている、というのが大半なのであって「完成度」とか「質」に関しては比べるべくもないという事。(少なくとも全体として見れば)
2についてはもし「社会的」価値に基づくストックであればそれは既存メディア、あるいは別な形式でやればいい話であり、逆に個人的なストック(個人的価値)に基づいたものであれば何がストックか、何てことは誰にも決められないという事。社会的価値にしてもそれはあくまで「現在の」というカッコ付きのものでしかなく未来において何が価値になるか、という事まで考えれば基本的には誰にも分からないのである。「ぱちもん」心理学研究所⑧ - ぶろしきで「普通の人の普通の日記の歴史学的価値」の可能性を書いたが、ストックというものには、あるいは「価値」というものには常にこういう問題があるのだと思う。
だから〈情報−実体〉概念によってこの価値評価と切り離したかったのである。(今にして思えば、なんだけども)それによってブログ自体の価値なり意義なりを導こうと考えたわけで。
じゃあこの概念の軸は何かと言えばそれは機能の違いであると思う。ここをイマイチうまく説明できていなかったようで、これにはid:Ohgyoku:20050425さんからも疑問が提出されていてコメント欄にもちょっと書いたのだが改めて詳しく書いておきたい。


ブログの記事は「情報」ではないでの〈ブログ=実体〉という見なし。これはその次の記事でちょっと書いたのだが、既存メディアとの対比、あるいは関係性を前提にした考え方であるというところが重要で、そこで前提にしてるのは〈新聞=情報〉という考え方なのである。つまり〈新聞(情報)−ブログ(実体)〉という関係性になるとオレは考えているのである。(というか予想かな)
これを〈先生−生徒〉の関係性を例に考えてみる。




【先生は情報、生徒は実体】
社会的な機能としてみた「学校」とは何か?というとこれが近代国家としての社会を支える基盤としての国民、あるいは社会人を養成する機関、と考えられる。
そういう機関としての学校における「先生」と「生徒」の関係性を考えると、先生は毎年同じ授業を毎年違う生徒に行い、社会の基盤となる国民を養成している、と言える。
で、これを〈遺伝子−細胞〉系として捉えなおすと・・・
個体(社会)を拠って立たせている基盤としての細胞(国民)は「遺伝子」(先生)という固定した情報によって新陳代謝を繰り返す事によって成り立っている。という事ができるのではないかという事。
機能として、そして関係性としてみた場合これらは同じなのだと考えている。ここで遺伝子=先生とするのはちょっと語弊があるとは思う。実際は「情報としての遺伝子によって細胞が作られる」の「よって」の部分、この二つを媒介している中間部分を担っているのだとは思うのだが、まぁ大体で言えばそういう事になると思う。つまり
〈先生−生徒〉=〈遺伝子−細胞〉=〈情報−実体〉
という風に捉える事ができるのではないかという事で、これが〈情報−実体〉という概念でオレの考えてる事である。(養老先生の、と言いたいとこだけどまだ誤読してる可能性大だったりするので一先ずそれを基にオレが考えてる事、としておきたい)


そういうわけでmakiさんの記事とはどうやら前提が違ってしまっているのだけど、これについては同じ記事の中での

ブログに何を求めるかは人それぞれである。santaro_y氏は議論できることを前提としているが、いわゆる議論、いわば問題解決・収束のための対話が成立するためには、制約条件が必要である。制約を設定しないで可能な議論形態というとたぶん、試行錯誤・発展のための対話、という感じになるのではないか。

というのにまったく同感で、違っていてもまったく構わないと思っている。非常に示唆に富む内容で興味深いのだがただ・・・もう一つ前々回記事へのコメントでの〈言葉−脳〉に関する話にも繋がってくるのだけど、どうも先を行き過ぎていてちょっと今の段階ではこれらにまだ的確に答えられそうもない。ので一先ずこの話はもう少し寝かしておきたい。
なので一応一先ずはここでの〈情報−実体〉概念はこういう意味として捉えておいてもらいたいです。オレはブログはその形式で書かれている限りはいつまでたっても、例えそれが「真理」になったとしても「実体」であり続ける、と考えてるのです。
ただ果たして〈新聞−ブログ〉を〈情報−実体〉という関係性で見るのが妥当かどうかというのはまだまだ不明であり、これをこれから何とか証明しようと考えてるわけですが・・・これについてはmakiさんの記事の中で「ブログで議論が行われない理由」として挙げられている

  • 自分なりの解が出た時点で満足する
  • 時間がない(書くのが遅い、反応が多すぎる)
  • 気軽に読めない(前の流れを読まないといけないし、レス形式だと概要がわかりづらい)
  • 面白くない(枝葉末節なことであったり、感情的になったり)
  • 発散することが見えているので避けたい

にもう一つ付け加えときたい。すなわち「能力の限界」(笑)
これは下の『前回までの補習(2)』にも関わる話なのだけど・・・