内容至上主義への疑問

もう一つ今回の匿名実名論争で感じた違和感。匿名擁護派が多く主張する「誰が言ったかではなく内容で評価すべき」という「内容至上主義」について。


この「内容至上主義」の出典はここ。
黒木玄のウェブサイト:「匿名」による批判の禁止ルール
Ohgyokuさん経由。まぁ大体技術系サラリーマンの交差点:匿名のかたと実名のかたへと重なっている話で実名と匿名との議論はフェアではない、というような話。おおよその定義として

「議論は、誰が発言したかではなく、発言の内容だけに基いて行なわれるべきである」と主張する人をよく見掛けます。以下、この主張を仮に「内容至上主義」と呼ぶことにしましょう。
〜中略〜

  • 大前提:議論は、誰が発言したかではなく、発言の内容だけに基いて行なわれるべきである。
  • 小前提:「匿名」であるか否かは発言の内容には全く関係ない。
  • 結論: したがって、「匿名」による発言も平等に扱われるべきである。

こんな感じ。まさしく今回匿名擁護派にこういう主張をしている人が結構いた。ただこれは既に前編で紹介した小林Scrap Bookさんの結論で一先ず納得出来るように思う。のでここでは問わない。これとはまた別な話。




■全体は部分の総和以上
というのが複雑系だかシステム理論だかにあるらしい。ネットに関する話を見て回ってると「創発」という概念によく出会う。その辺から知った話でまぁ深くは知らないのだけど以下はこの「全体は部分の総和以上」というのからヒントを得た話。
「誰が書いたかではなく記事の内容が大事」という内容至上主義に感じた違和感。端的に言えばそれは”人”ではなく”情報”が大事なのか?というものだ。ここに凄く引っ掛かった。
ある一人のブロガーにとって記事とはまさに「部分」である。何万語を費やしたってその人の全体を語る事なんてできない。
一方読み手にとっては一つの記事を読むだけならそれはまさしく内容それ自体でのみ判断するしかない。だが二つ、三つ・・・といくつかの記事を読んでいくとある時点からその人の全体的、統一的イメージが出来てくるのではないかと思う。では記事という部分の総和とこのイメージされる全体像は等しいのだろうか?
おそらく等しくない。なぜならここで作られるイメージには読み手の個人的な経験、記憶などによって補完されたものが必ず含まれているはずだからだ。つまりここで作られるイメージは「部分の総和以上」なのである。そしてこの総和以上の部分(ややこしいな)に関しては読んだ記事に直接関係していない、つまりは内容に含まれていない。それは読み手の側の個人的な経験から導き出されている。それなら内容至上主義者はこれを否定せざるをえなくなるのではないか。
しかしそれを否定する事は果たして可能か?というならそんな事は無理である。これは人の認知というものの基本的なあり方なのだから。ある物に対する認識でその物自体から受け取れる情報のみで判断する事が許されているのはまだ何の経験も記憶もない赤ん坊のみに許された認知のあり方であって、ある程度成長して以降は必ず何らかの経験などの記憶が召喚され肉付けされた認識にならざるを得ない。そしてそこで作られるイメージはその物自体に直接関係ないという意味ではある種の「幻想」であるとも言える。実際こういうイメージには勘違いや間違いが多分に含まれている。これも当たり前だ。もしそれがないというならそれは物の本質を完全に把握している、つまりは「真理」を知っているという事に他ならないからだ。もちろん神ならざる人が真理など認識できるわけない。が、この間違いや勘違いという「経験」を積み重ね、それが何度も修正変更されていく事で少しづつでも物の本質「真理」に近づいていくわけで、あるいはその試行錯誤からしか近づけないわけで、いかに間違い勘違いがあったとしても主観的にイメージを構成することが否定されるわけではないという事。
ちょっとまとめる。

  1. 物それ自体からのみ得られる情報は全体にとって部分でしかない。
  2. そのいくつかの部分を寄せ集めて個人的な経験を元に肉付けして全体のイメージを作る。
  3. 肉付け部分は物それ自体に関係ない個人的経験に基づいたもの。ゆえにそれは幻想であり間違いも多分に含む。がイメージする事それ自体が否定されるわけではない。(というか否定しようったって無理)

さぁどうなんだろうか。ブログにおいて(つまりは固定ハンドルにおいて)「誰が言ったかでなく内容が大事」という内容至上主義はちょっと問題があるように思う。というより内容至上主義は他の同じテーマを扱っている記事との関係、テキストの文脈しかみない。「誰が言ったか」は関係ないという事はそのテキストの向こうにいる「人間」を見るつもりがない、という事とイコールだ。いやはっきりいって殆どの人がそうである、という事はよく分かっている。
例えば・・・「真性」引き篭もりの以下の二つの記事。


http://sinseihikikomori.bblog.jp/entry/164381/
http://sinseihikikomori.bblog.jp/entry/187625/


まったく同感である。しかしどうなんだろうか。この認知への欲求というのはひきこもりに特有のものでしかないのか。それが過剰である、というのは否定されてしかるべきなのかもしれないが、この認知への欲求というものが結局はブログの世界を基底のところで支えているように思うのだけど・・・「情報」でなく「実体」を、テキストだけでなく人間を見て欲しいのではないかと。
・・・思うのだけど、う〜んどうなんだろうか。イマイチ普通の人の感覚が分からんのでとりあえず疑問を提出。






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匿名であること、実名であること。: 304 Not Modified
一つしか探し出せない・・・たくさん見たんだけどな〜泣