まずは世界でなく自己、外でなく内

http://nikkeibp.weblogs.jp/gato/2005/05/endandstart.html
この辺から始まるガ島通信の藤代氏による一連の「リアルーサイバー」「匿名ー実名」に関する議論。
ここから派生したhttp://scott.seesaa.net/のScottさんの
http://scott.seesaa.net/article/4507738.html
その中で紹介されている
http://d.hatena.ne.jp/./VanDykeParks/20050619/1119199399
http://blog.livedoor.jp/kaim/archives/25736442.html
も合わせて、ネットの社会への影響力というものについて思うこと。




藤代氏に限らずジャーナリズム系のブロガーが想定している、例えばアメリカのブログの社会への影響力の大きさ、韓国の”市民”記者なるものによるオーマイニュースなどの影響力。
こういった例をある種の理想として考えているのにはどうも違和感がある。オレもこのブログで社会への影響力の可能性などについて書いてるいるのだけどちょっと意味合いが違う。
もう一つ。
「ブログは単なるCMSでツールの一つでしかない」
これはブログの記事やあるいはコメント欄などで物凄くよく見かける言葉である。この言葉はブログに過大な期待をかけているものに対する批判、であると同時にブログというツールつまりは単なる「道具」であるはずのものにどうも振り回されてしまっている状況に対する(場合によっては自分への)戒めという文脈で語られている。あくまで道具とは人が目的にそって好きなように使うべきで「使われる」ものではない、というわけだ。
更にもう一つ。
「誰か一人でも読んで何らかの影響を受けてくれればそれでいい」
これは必ずしもたくさん見かけるというわけではないが少なからず多くの人が、特に当ブログのようにたいしてアクセスがあるわけでなかったり、読み手からの反応が殆どないブログ運営者などがモチベーションにしていると思われる「考え方」だ。一見とても謙虚な考え方であるように見える。だがしかし・・・


以上の三点
(1)ネットが社会への影響力を持つには?
(2)ブログは単なるCMSの一つでツールでしかない
(3)誰か一人でも読んで影響受けてくれればそれでいい
には一つの共通した「考え方」がある。それは、
「内側(自己)を変えないで外側(世界)を変えようとしている」
という事である。
この事についてはマスターヨーローの次の文章が示唆に富む。
http://www.konami.co.jp/ql/interview/05001/

もっと人間はフレキシブルなもので、何だってできるんだよ!っていうことです。

希望って、実は、今の若い人が一番錯覚を起こすのは、外の世界が変化すること、と思ってしまっている。そうじゃないんですよ。未来は外に築くんじゃなくて、内に築くんですからね。最大の希望は自分自身が変化することなんですよ。それを「私ってこんな人」って自分で言っているんだもん(笑)。それは一見謙遜に見えて実は最も傲慢な態度ですね。自分の事は自分自身が一番良く見えていると思っているんだから。冗談じゃない、昔の人は「子を見ること親にしかず」って言っています。

今流行りの血液型の性格占いみたいに、血液型と性格は一生変わらないですよって、すぐに決め付けてしまうでしょ。じゃあ、宝くじに当たったネクラな人の顔をみてみたいですよ(笑)

まず(1)の「ネットの社会への影響」というものを考える上で見逃されがちなのは、そこで影響を与える主体はネットではなくネットを利用する「人」であるという事だ。
そしてもし社会への何らかの影響力があったとしても、そもそもこの「利用する人」が下らなければ下らない影響にしかならない、社会を変えるというならそれは改悪でしかない、という点である。
だからネットの社会への影響力というものを考える上でより重要なのは、社会以前にまずネットが人の意識をどう変えるのか更には成長させるのかという視点であると思う。
オレはこの視点からブログは面白いものだと思っていてそれを「沈黙のオーディエンスから主体的オーディエンスへの変換」としてここに書いた。人がブログを書き続けるという事による意識の変化、もっと大げさに言えば世界観の変化は決して無視できないインパクトを持っていると思う。
でとりあえず5ヶ月やってみての感想としても・・・
まず何より他の人のブログを物凄く読むようになる。それを書いている人の大半はハンドルネームの「無名」の人でありかつ自分とは殆ど何の関係もない人である。無名で関係の無い人のそれも長文を(笑)読み込むなんて現実では殆どありえない。オレもここでは基本的に長文を書いているけど現実ではかなり無口でそもそもこんな事をしゃべる相手などいない。それはひきこもりだから、というもあるが普通の人でも語るべき相手や「場」の無い人の方が多いのではないかと思う。
実名よりコテハンという無名である方が良い、とオレが考えるのも例えばオレなら実名になった瞬間語るべき言葉の殆どを失い一行も書けなくなる。それは現実での「分をわきまえる心」つまりはひきこもりなんかが偉そうな事言うべきでない、という「真っ当な」感覚が発揮される事になるからだ。
もちろん分をわきまえるのは大事な事であると思う。がそれはごく狭い世界の特定の時代の人間同士の「約束事」に過ぎないのだとも言える。それ「だけ」では面白くないしそういう枠組みからはずれた場所がある事に別な意義があるのだと思う。(最もそこでまた別な約束事ができるのだろうけど)
まぁいずれにせよ世界には無名でも凄い人がいる、とか物事にはホント色んな考え方があるとかを実感する事が多くこういう事だけでも世界への認識をかなり急速に変えているように感じる。ホントはもっと色々あるのだけど長くなりそうなのでここでは割愛。
(コテハンで書く意義としてこの辺とかcatfrogさんのhttp://plaza.rakuten.co.jp/catfrog/diary/200506180000/の後半で引用されているプラトンの言葉なども参照)




(2)のツール、道具というものに対する考え方も問題があるように思う。それは道具は一方的に人が使うもの、と考えている事でそこでは道具の人に与える影響というものを不当に低く見積もっている印象がある。
あらゆる道具は人がある目的そって人に便利なように役に立つように作るが、それは同時に人がそれに適応すべき「環境」としての側面もある。
そして道具を環境という側面から見るならそれに対する適応とはつまるところ「自己が変わる」という事で、更にその変わった自己によって新たな目的やベクトルが生成されうる・・・つまりは


目的→道具→道具への適応→人の変化→新たな目的


という過程。これを踏まえるなら「ブログは単なるツール」というのは必ずしも適切ではない。ブログを楽しく運営していく上できっちり目的を掴んでそれに合わせて使う、というのも確かに大事だが同時に環境への徹底的な適応という面にも意識的である必要があると思う。




そして(3)のブログの記事を書くモチベーションとして「誰かが影響を受けてくれれば良い」という考え方。
これはブログというものが流行った理由として「認知への欲求の強さ」があるとオレは読んでいてそれに根差しているものなのだろうと思う。
オレ自身過剰に持っていると自覚しているので気持ちは凄く分かるのだけど、そして現実世界でこの欲求が満たされづらくなっている状況があっての事なので悪いというわけではないのだけど・・・ここでもやはり変わるのは他者、つまり外の世界を変えようとしているわけで自己が変わっていくという視点がない。
じゃあオレは何の為にブログを書いているか。
というと確かに影響を受けてくれれば嬉しいが同時に批判や反論などで自分の考え方なり意識なりが変わる、そういう可能性があるから書いているという方がどちらかというと強い。何も直接的な反論などでなくとも何らかの出会いによってももちろん変わりうる。
でそれはブログというツールが指向しているあり方でもあってトラバやコメント欄によって他者がいくらでも言及できる、そこが良いところなわけだ。(最近ではブクマのコメント欄とかも)
これについては「ぱちもん」心理学研究所⑤ - ぶろしきここでも書いた。ブログ界岡田斗司夫いうところの「自由洗脳競争社会」の雛型なのだというのがオレの読みである。




という事でつまりはこういった人の意識の変化というものを十分に踏まえてまず積極的に評価しないで社会への影響力を語るのはどうか、と思っている。
ブログが社会への影響力を持つ基底となるべき前提はまず人が変わる事でありその事によってしか社会への影響力などありえない。もしくはそれ抜きの影響など下らないものにしかならないと思う。
大事なのはネットによって更にそこに積極的に関わり主体的に参加するブロガーがそこでどのように変わりうるのか、もっと言えば成長するのか、「世界」の変化とはまず人の内なる変化ではないかと。
そう思っている次第。
でもってそれは実際急速に変わりつつあるのに社会への影響力を持つ為に実名にすべし、なんてやはり本質を見誤っている話なんじゃないかな〜と思うのです。(逆に影響力はない、と結論付けてしまっている意見も)