ブログに必要なのはコンテンツのコミュニケーション化?(5)

積み残しだった話題。微妙にタイトル変わってますが。
というか岡田斗司夫『オタク学入門』の紹介だったりするんですけども。
この本の重要なテーマに「コミュニケーションとしてのコンテンツ」というのがあるな、と気づいたんでその部分を引用とかしときたいです。例のごとくネットでタダで読めるのでお勧め。ブラウザで読むの大変だけどw




この本は『ぼくたちの洗脳社会』に続く岡田斗司夫の二冊目の本でオレが買って読んだのはこの二冊のみ。後はパソコン買ってからネットで無料で公開されている分は全部読み漁ったけど、とにかく岡田斗司夫にはずれなしという感じ。中でもやっぱり買って本として読んだせいかどうか知らないけどこの二冊はホント凄いと思ってる。
とりあえず大体の概要としては
オタク学入門:オタク文化論
この最後の章を読めば分かると思います。特に引用したいのはここ。

僕はオタク文化というのは「江戸時代の消費者文化」である職人文化の正統00な後継者ではないかと考えている。つまりオタク的な楽しみとは、職人の芸を観賞するというスタンスの楽しみ方ではないだろうか。職人の匠の技を愛でたり、由来を確かめたり、粋を観賞したりする。その中で2章で説明した「世界」と「趣向」という決まりに則った作品観賞、見立てという抽象化という、日本の古典文化と同じ方向へ進化していったのだ。

ではその「職人文化」というものを探ってみよう。

どんなにいいキセルも、見方のわからない人にはただのキセルでしかない。せいぜい変わった柄とか、売値が高い、とかいうのがわかる程度だ

こういう人は野暮(やぼ)と呼ばれて嫌われる。

これに対して、わかる人はこのキセルからいくつもの発見をする。たとえば「キセルの材質が錫と違って銀だ、これは色味はいいのだが細工しにくいため敬遠されがちな材質じゃないか。なかなかの腕の技と見た!」とか「この模様はよく見たら千鳥じゃないか。なるほど、タバコの煙を州浜に見立てて、その上で千鳥とは粋だ」とかの、作者側の暗号を判ってくれる客を「粋」と呼ぶ。

作る方も粋な人ならわかってくれるだろう、と考えて作る、見る方もそれに応える。逆に作る側が手を抜けば見る側から厳しい批判が返ってくる。

前の章で説明した日本庭園も同じだ。この庭は、あの歌で詠まれた粟津晴嵐(あわづのせいらん)の情景を作ってあるのだな、と見る側も心得ていなければ仕方がない。こういう作り手と受け手のキャッチボールのような関係が日本文化の特徴だ。

基本的には「オタク文化=職人文化」という事でそしてそのオタク文化こそが日本文化の正統後継者でありかつこれからの世界の主要な文化になる。というような内容。
とにかく面白いです。オレはオタク的素養は殆どないけどそういうの関係なしで十分楽しめるし示唆に富む内容だと思います。
で、このシリーズ的に重要だと思うのが引用最後の部分の


>こういう作り手と受け手のキャッチボールのような関係が日本文化の特徴だ。


この日本文化の特徴、作り手と受け手のキャッチボールとはまさに「コミュニケーションとしてのコンテンツ」という事だと思う。
オタク学入門:粋の眼
それをこの辺でも「見立て」や「世界と趣向」という日本文化の特質として書かれているがおそらくブログ的にも分かりやすいのは次の茶碗に関する話だと思う。

その点、日本文化の場合、作り手と受け手の間で切磋琢磨して文化は進化する。では、作り手と受け手は対等なのかというとそうではない。実は、「作品の良さを理解して言葉にできる」という「受け手」の方が日本文化では偉い、とされているのだ。

たとえば、茶道でも茶器の目利きという仕事があった。実際に粘土をこねたり、窯に火を入れたりする職人よりも、彼らはずっと尊敬されていた。

千利休だって茶碗ひとつ焼けないただの人だが、彼がこれは、と認めればその茶碗は稀代の名器としてありがたがられた。千利休が偉かったから皆が鵜呑みにしたのではない。彼の語る言葉によって、その茶碗から確かに美が引き出せたからだ。

つまり、彼が茶碗の由来を語り、巧みな技をほめ、縁の欠けたさまに感動するしぐさを見て、それまではただのモノであった茶碗は芸術作品に昇格するのだ。

その構造が如実にわかる話として「はてなの茶碗」という落語がある。ただの薄汚い、おまけに水が漏れる茶碗を、茶屋金兵衛が「はてなの茶碗」と名付ける。どこからともなく漏れる水がおもしろい、趣があるというのだ。新しい評価を受けたその茶碗は、いきなりもてはやされ、九条関白、時の帝にまでお墨付きをいただいて、とうとう千両の値がついてしまう。

茶碗が変わったのではない。水が漏ることを価値としてみるという新しい視点が示されたのだ。その視点の変化のおもしろさが千両に値したという事だ。

西洋が《作り手>受け手》であるのに対して日本では《作り手<受け手》でありだからこそ作り手と受け手のコミュニケーションは成立する。そしてそこではより優れた受け手、鑑賞者、評価者が必要でつまりそれが「通」であるという事。
でこれは何も職人やオタクの話ってだけではなくブログを考える上でも重要だと思っている。
「沈黙のオーディエンス」について(2) - ぶろしき
ここでも書いたのだけどオレは


>ブロガーとはかつて「沈黙のオーディエンス」だった者達の進化したまったく新しい存在形態「主体的オーディエンス」である。


と考えている。「自己を表現し始めた観客」である事、本質はあくまで「受け手」である事にあるのだと思う。
たまにというかよく見かける言説に、ある事柄についての自分より優れた文章を読んで自分で書く気が失せた、みたいなのがあるのだけどオレはこの考えは違うだろって思ってる。つまりその優れた文章の受け手、読み手としてその文章なり考察がいかに優れているかを語るのがブロガーだろ、と思うわけだ。
我々は優れた書き手である前に優れた読み手になる事を目指すべき、じゃないかと。
更には「はてなの茶碗」の例のようにその評価が必ずしも作り手の意図するもの、である必要も実はない。より面白い見方、視点が提供されるならそれでいいんである。


で今オレの中にある一つの図式があってそれは
【世界】→【のあらゆるものの鑑賞者、評価者としてのブロガー】→【の記事の評価者としてのブックマーカー
というもので評価の行き止まりにソーシャルブックマーク(あるいは個人ニュースサイト)があってこれが今一番エラい。
じゃあその次に来るのは・・・ってとこで凄い面白いことになりそうなんだけど一先ずこれでこのシリーズは終わりにしときたい。




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『ぼくたちの洗脳社会』の方についてはこの辺で書いてます。
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