(1)「ジャーナリズム」の定義

ネットは新聞を生み出すのか - ぶろしき

ジャーナリズムとは何か?

オレはこれを「何が情報かを決める事」だと考えている。よく取材がなければジャーナリズムとは言えない、と言われるが何が社会にとって重要な情報かが分からなければ何を取材すればいいのか分からない。情報は無限に転がっている。社会に問題は山済みだ。その中で何が情報として重要なのか、どんな問題を優先的に報じるか、これを決めるのがジャーナリズムである、と思っている。

これが前に考えたジャーナリズムというものに対するオレの考え。
とにかくこの話はこの定義を真としなければ成り立たないものなのでまずはこの定義の妥当性から書いていきます。
まず上の文章をもうちょっと詳しく定義し直すと要するにこういう事だと思う。


ジャーナリズム
ある社会、もしくは共同体の構成員全体にとって重要な、あるいは知っておくべき情報の格付け、報じるべき優先順位を決める事。


オレはこの定義こそが「ジャーナリズム」というものの最も中立的なそして普遍的な定義になるんじゃないかと考えているのだけど、この定義によるジャーナリズムの「変化」には基本的に二つの軸があるのだと思う。

  1. その価値観、基準が変わる事
  2. それを決める主体自体の変化

まず1から説明する。






1.「少年による凶悪犯罪」の優先順位
最近では少年の犯罪の凶悪化などがよくマスコミで話題になっていた。だがこれに対してホントにそうなんだろうか?と疑問を呈する「情報」がネット上では非常に多く見られる。
試しに「少年による凶悪犯罪」でググってみた結果の上位3位までが


http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson2.html
少年犯罪は急増しているか
少年犯罪は凶悪化しているか


この三つ。(現在のところ)
これらを見ればこの話がいかに根拠の怪しい話であるか、誰でも疑うのではないかと思う。
凶悪犯罪は昔からあった(むしろ数は多かった)し、質についても動機のないもの分からないものもたくさんあったようだ。
もちろんだからといって現在それが多く報じられている背景には様々な理由、例えば少年の凶悪犯罪というものに対して非常に多くの人が興味を持っている、などがあるわけでそれを報じる事自体は間違っているとは言えないのだとは思う。
だがここで重要なのは、

  • なぜかつての少年による凶悪犯罪は社会的問題にもならずそれほど大きく報じられなかったのか?

という視点。
少なくとも数においては今より多かったのだから問題になっても良かったはずなのになぜそれらは大きく報じられなかったのだろうか。
「それ」が社会にとって重要な情報ではなかった、「情報の優先順位」が低かったから、じゃないだろうか。おそらくはそれより先に報じるべき重要な情報が他にたくさんあった。まだまだ社会にインフラなどの整備が出来ていなかった状況だったわけなので多かったのは何も少年の犯罪ばかりじゃない。
逆に言えば現在それが大きく報じられる背景にはそれ以外の問題が無くなって来たから、というのも一つの根拠として十分成り立つのである。
というわけでこれを一言で表すとすると当時の人と現在の人では価値観、世界観その他様々なものが違っているから、という事だ。
要するに時代が変わったのである。
何が社会にとって重要な情報か、優先的に報じるべき情報とは何か、こういった価値基準は時代とともに変わっていくし常に変化し続けていると考えていい。
これがジャーナリズムの「小進化」である。






2.大本営発表はジャーナリズムである
しかし滅多に変わらないものもある。それは

  • 「誰が」情報の格付け、優先順位を決めるのか。

という主体に関するものである。これは簡単には変わらないものであって、そして主体が変わると基準自体も大幅に変化してしまうわけなのでこれを「ジャーナリズムの大進化」という事ができると思う。
そこで例としたいのが戦時中のいわゆる「大本営発表」である。
「大本営発表」とは?

大本営は、戦争または事変に際し、天皇を補佐するための最高統帥機関で、一八九三年(明治二十六年)、勅令「戦時大本営条例」で法制化され、一年後の日清戦争時に初めて設置されました。日中戦争開始後の一九三七年(昭和十二年)には、大本営陸海軍部に「報道部」がそれぞれ設けられ、その中の「内国新聞発表係」が行う公式発表が「大本営発表」の始まりです。

日本共産党の「赤旗」にちょうど良い記事がw(引用していいのだろうか。そういうのが今だによく分からないんですけど)
つまりは戦争という国家の緊急事態において軍部に設けられた特殊な機関の「内国新聞発表係」による戦争に関する情報の公式発表。という感じ。
でこれがリンク先を読めば分かるように不利な情報を隠したりあるいは捏造したりとにかく国民の戦意を高揚させる為に色々やった、と言われている。そして新聞、放送などへの検閲、報道管制もありこの大本営発表はそのまま新聞などで大々的に報じられた。(まぁ新聞社などが積極的にやった、という話も聞く)
ここではこれが良かったのかどうかとかそういう事はどうでもいい。
大事なのは戦争という国家の緊急事態において情報の格付け、優先順位を決める「主体」が変わった、と考えられる事である。
これがジャーナリズムにおける大進化の典型的な例になるのだと思う。(進化とは本来中立的な意味らしいので良くなるとは限らない)
そもそも戦争状態なのだから戦争に関する情報が最も優先的に報じるべき情報であるのは当たり前ではある。だから基準自体ももちろん変わったのだけど何より主体が変わった事が大きい。基本的にはどこの国だって戦争になれば国家が情報をコントロールしようとするのであってこれは多分常識であるのだと思う。
だがこれを普通ジャーナリズムとは言わない。


http://kusanone.exblog.jp/2156662/

このブログ上で過去何度も問題になっているけど、「そんなのジャーナリズムじゃない」議論ですね、今回も。でも「ジャーナリズム」の定義って、歴史的に見てころころ変わっているんですよ。わたしの短い記者人生の中でも、ジャーナリズムの一般的な定義が変わってきているようにも思う。

上は論争の中で出てきた湯川さんの文章。
そうなのかもしれない。一見するとコロコロ変わっているように見えるかもしれない。だがより本質的に考えるなら変わっているのはジャーナリズムの「定義」ではないのだとオレは思う。変わっているのは基準やそれを決める主体の方だ。
そして今言われているジャーナリズムの変化が本当に変革と呼べるような大きなものであるのなら、そこで変わろうとしているのはまさしく「主体」の方であると考えられる。

  • 「誰が」情報の格付け、優先順位を決めるのか

問題はここだ。
そしてここまで考えればライブドア堀江社長の言った「価値判断はユーザーがすべきだ」というのは正しくジャーナリズムに対する革命的な言葉であった事が分かる。まさしくそれは主体の変化の事を言っており旧来のジャーナリズムに対する挑戦だった・・・と言いたいのだけどオレはこれでもまだ一歩足らない、と思っていてそれは後述する。


という事で改めてジャーナリズムの定義。

ジャーナリズム
ある社会、もしくは共同体の構成員全体にとって重要な、あるいは知っておくべき「情報」の格付け、報じるべき優先順位を決める事。


ジャーナリズムの変化
その価値観、基準が変わる事(小進化)
それを決める主体自体の変化(大進化)

これが過去においても現在もそしておそらく未来においても変わらぬジャーナリズムの定義になるんじゃないかと思う。
納得してもらえたかは分からないのだけど一先ずこれを前提にして以下話を進めていきます。