(1)ソーシャルキャピタル=世間

最近「世間」について色々考えている。
きっかけは確かこの辺。


http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20051101/114110/
http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20051102/114123/
http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20051102/114129/
http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20051110/114204/
http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20051121/114355/
http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20051122/114379/


ざっくりいうと「2ちゃんねる=世間」説が唱えられていて、で(4)辺りでこれに対する反論があったのだけど
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20051112/1131765943
デジタルARENAは自分が媚びへつらっている、その対象すらよくわかっていない - シナトラ千代子
これ読んでちょっと違和感があった。「世間」という言葉への感覚がどうもちょっと違うなと。例えばwetfootdogさんの

何度か書いているけど、「問題があるブログ」判定の作業を集団のなかに預けてしまった時点で、個人の思考と倫理を放棄してしまっているわけで、そこに「さまざまな個人」など存在しない。そんな特定の個人でもなんでもない、だれにもわからないはずの「心根」を持ち出す意味はなんだろう? そんなあやふやなものを「世間」と呼ぶ意味はなんだろう?

最後の『そんなあやふやなものを「世間」と呼ぶ意味はなんだろう』というのに関していうと世間って相当あやふやな、主体のない何か、であるとオレは認識している。自明の定義付けはおそらくない。
だから2ちゃんねるは世間である(になった)という言説それ自体にはまったく違和感ないどころかその通りだと思う。問題はそれを肯定的に評価しているところ、なんだろうけどそれはここではどうでも良い。とにかく2ちゃんねる(の祭り)は世間的性質を強く持っている、というのが重要。


でもう一つ面白かったのがこのデジタルARENAの記事ははてブでかなりたくさんブクマされてホッテントリに上がりまくっていたのだけど、そこでのコメントでは反発や揶揄するものが結構あった。で、どうもその後の展開から見てこれを書いた人は相当このはてブでの反応を意識していたようで後半記事はやたら言い訳めいたものが多くなった。
何が面白いかというとつまりはてブコメント的にはあれは「祭り」に近く、そしてそれに書き手も相当影響されていたというakoginaさんいうところのエントリの二次構造。「2ちゃんはもう世間なんだからそれに従え、あるいは触らぬ神にたたりなし」という主張がはてブで祭られて今度はそっちの「世間」に迎合。迎合なんていうと申し訳ないけどでも主張は一貫していると思う。
「世間には逆らうな」
というわけではてなブックマークにも世間的な性質が強くあるなと感じた。




で「ソーシャルキャピタル社会関係資本)」なんである。全然一般的な言葉ではないし横文字不信派のオレとしてはちらちら見るけどよく分からないアヤしい言葉だった。
電網山賊さんが「機械を丈夫にすると人が壊れる」に関連した話としてリンクしたここの3月11日:モラルハザードと「システム教」。これがやたら面白かったのでついつい他のとこも読んでて、んで見つけたのが3月4日で紹介されている以下の「ソーシャルキャピタル」に関する文章。


http://japan.internet.com/public/report/20040121/1.html
http://japan.internet.com/public/report/20040127/1.html
http://japan.internet.com/public/report/20040210/1.html
http://japan.internet.com/public/report/20040224/1.html
http://japan.internet.com/public/report/20040302/1.html


成り立ちからすごく丁寧に説明されている。詳細は読んでもらうとして、ではこれ読んで「ソーシャルキャピタル」が何なのか分かるかというと具体的には分からない。定義は相当緩いようだ。3で色々な人の定義を踏まえて

しかしながら概ね「信頼」「規範」「ネットワーク」という3つの要素からなり、さらにそれらから得られる「特徴」「能力」「資源」であると理解することができる。

としているが、個人的にこれが分かりにくい理由として二つ思うところがある。
まずこれは何らかの「機能」についての話であると思われる点。
以下は養老先生の本で学んだことなのだけど、ものには構造と機能がある。例えば心臓。右心房があって左心房があって…というのは構造についての説明。血液を「循環」させている…なら機能の説明。構造が実体で機能は概念。身体から心臓を取り出すことはできるが「循環」という機能を取り出すことはできない。
あるいは脳と心(精神)。右脳があって左脳があって…なら構造の説明。それに対して心は脳の機能。身体から脳を取り出すことはできるが心は取り出すことができない。機能は概念で実体がない(視覚的に把握できない)ので構造より一般に分かりにくい。ソーシャルキャピタルも何らかの実体を指し示しているのでないと考えられるので、これは機能のことを言っているのだと思う。だから分かりにくいのはしょうがないんだろうなという。
もう一つ。
いわゆる「世間」について一言も言及がない点。これは重要だと思う。はっきりいってここで書かれているような意味なら日本では「世間」で大体通じる。にもかかわらずなぜそれに言及しないのか。この辺にこの言葉のアヤしさがあるなと思った。
goo辞書の定義
世間の意味の範囲も相当広い。世間って何?と聞かれてもうまく答えられそうにない。
「そんなことは世間が許さない」
というようなことが言われるが、何らかの明示的ルールがあるわけではなく、「誰が」というような主体も存在しない。にも関わらずそれは人を場合によっては裁くし何らかの行動を抑制、あるいは推奨する。

>なぜ今ソーシャル・キャピタルなのか 2

パットナムはソーシャル・キャピタルとは「人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴」と定義している。


そして「ソーシャル・キャピタル」が豊かなら、人々は互いに信用し自発的に協力する、すなわち「集合行為のジレンマ」の最善な解決策、そして民主主義を機能させる鍵として提示したのである

『民主主義を機能させる鍵』とされているが、日本がアジアで唯一近代化に成功したのは「世間」があったからだと思われる。というか世間しかなかった。
そして一旦目的が定まった時の協調性、そこから生まれる信頼や規範もハンパではない。戦争や戦後の経済復興を見てもそれは明らか。
でそもそもソーシャルキャピタルとは特定の社会に成立するものなのでそのあり方は当然多様な形態をとると思われるので


Japanese Social Capital=世間


という風に考えればいいのだと思う。多分。
でネット上で成立するかもしれない、あるいは既に成立しつつあるそれを「世間2.0」であると考える。2ちゃんねるはてなブックマークがそこに含まれる。
「そんなことは2ちゃんねらーが許さない」
「そんな無断リンクとかモテな話ははてなブックマーカーが許さない」
という忠告はもう世間と同じ文脈で語りうると思うのだけど、これが何らかの規範を成立させるだろうことも明らかだ。それがいいのかどうかは分からないけども。
ということで[世間2.0]というカテゴリを作ってそういう文脈で色々考えてみようと思った。ので多分この話は続く・・・