ソーシャルブックマークこそが(市民)参加型ジャーナリズムである論

というのを唱えてみようと思います。
事の発端はちょっと前にあった『ブログ時評』の団藤さんと『ネットは新聞を殺すのか』の湯川さんの間の論争。

ざっくり言えば「新しい参加型ジャーナリズムは質か量か」というような話でその後も色々な人がこれについて語っているのだけどお勧めなのが、というかぜひ読んで欲しいのが『すちゃらかな日常』の松岡さんの
質を問わない「参加型ジャーナリズム」って意味あるの? - すちゃらかな日常 松岡美樹
こちらの記事。この中で湯川さんの想定している参加型ジャーナリズムにある矛盾「質を問う事と誰もが参加できなければならないという平等主義の間の矛盾」が指摘されている。
で要するにこの矛盾について考えていて思いついたのがタイトルのような話になるのだけど今回ちょっと3回分一気に書いてしまいました。ので長いです。以下


(1)「ジャーナリズム」の定義
(2)はてなブックマークは(市民)参加型ジャーナリズムである
(3)「庶民」による江戸時代型ジャーナリズムの過去、もしくは未来


という構成になってますんで覚悟して読んでくださいw





http://column.chbox.jp/home/jienology/archives/blog/main/2005/08/09_135824.html
ちなみにウェブログ図書館で論争の流れを見やすく機能によってまとめられているので、詳しく知りたい人にはこちらがお勧めです。

(1)「ジャーナリズム」の定義

ネットは新聞を生み出すのか - ぶろしき

ジャーナリズムとは何か?

オレはこれを「何が情報かを決める事」だと考えている。よく取材がなければジャーナリズムとは言えない、と言われるが何が社会にとって重要な情報かが分からなければ何を取材すればいいのか分からない。情報は無限に転がっている。社会に問題は山済みだ。その中で何が情報として重要なのか、どんな問題を優先的に報じるか、これを決めるのがジャーナリズムである、と思っている。

これが前に考えたジャーナリズムというものに対するオレの考え。
とにかくこの話はこの定義を真としなければ成り立たないものなのでまずはこの定義の妥当性から書いていきます。
まず上の文章をもうちょっと詳しく定義し直すと要するにこういう事だと思う。


ジャーナリズム
ある社会、もしくは共同体の構成員全体にとって重要な、あるいは知っておくべき情報の格付け、報じるべき優先順位を決める事。


オレはこの定義こそが「ジャーナリズム」というものの最も中立的なそして普遍的な定義になるんじゃないかと考えているのだけど、この定義によるジャーナリズムの「変化」には基本的に二つの軸があるのだと思う。

  1. その価値観、基準が変わる事
  2. それを決める主体自体の変化

まず1から説明する。






1.「少年による凶悪犯罪」の優先順位
最近では少年の犯罪の凶悪化などがよくマスコミで話題になっていた。だがこれに対してホントにそうなんだろうか?と疑問を呈する「情報」がネット上では非常に多く見られる。
試しに「少年による凶悪犯罪」でググってみた結果の上位3位までが


http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson2.html
少年犯罪は急増しているか
少年犯罪は凶悪化しているか


この三つ。(現在のところ)
これらを見ればこの話がいかに根拠の怪しい話であるか、誰でも疑うのではないかと思う。
凶悪犯罪は昔からあった(むしろ数は多かった)し、質についても動機のないもの分からないものもたくさんあったようだ。
もちろんだからといって現在それが多く報じられている背景には様々な理由、例えば少年の凶悪犯罪というものに対して非常に多くの人が興味を持っている、などがあるわけでそれを報じる事自体は間違っているとは言えないのだとは思う。
だがここで重要なのは、

  • なぜかつての少年による凶悪犯罪は社会的問題にもならずそれほど大きく報じられなかったのか?

という視点。
少なくとも数においては今より多かったのだから問題になっても良かったはずなのになぜそれらは大きく報じられなかったのだろうか。
「それ」が社会にとって重要な情報ではなかった、「情報の優先順位」が低かったから、じゃないだろうか。おそらくはそれより先に報じるべき重要な情報が他にたくさんあった。まだまだ社会にインフラなどの整備が出来ていなかった状況だったわけなので多かったのは何も少年の犯罪ばかりじゃない。
逆に言えば現在それが大きく報じられる背景にはそれ以外の問題が無くなって来たから、というのも一つの根拠として十分成り立つのである。
というわけでこれを一言で表すとすると当時の人と現在の人では価値観、世界観その他様々なものが違っているから、という事だ。
要するに時代が変わったのである。
何が社会にとって重要な情報か、優先的に報じるべき情報とは何か、こういった価値基準は時代とともに変わっていくし常に変化し続けていると考えていい。
これがジャーナリズムの「小進化」である。






2.大本営発表はジャーナリズムである
しかし滅多に変わらないものもある。それは

  • 「誰が」情報の格付け、優先順位を決めるのか。

という主体に関するものである。これは簡単には変わらないものであって、そして主体が変わると基準自体も大幅に変化してしまうわけなのでこれを「ジャーナリズムの大進化」という事ができると思う。
そこで例としたいのが戦時中のいわゆる「大本営発表」である。
「大本営発表」とは?

大本営は、戦争または事変に際し、天皇を補佐するための最高統帥機関で、一八九三年(明治二十六年)、勅令「戦時大本営条例」で法制化され、一年後の日清戦争時に初めて設置されました。日中戦争開始後の一九三七年(昭和十二年)には、大本営陸海軍部に「報道部」がそれぞれ設けられ、その中の「内国新聞発表係」が行う公式発表が「大本営発表」の始まりです。

日本共産党の「赤旗」にちょうど良い記事がw(引用していいのだろうか。そういうのが今だによく分からないんですけど)
つまりは戦争という国家の緊急事態において軍部に設けられた特殊な機関の「内国新聞発表係」による戦争に関する情報の公式発表。という感じ。
でこれがリンク先を読めば分かるように不利な情報を隠したりあるいは捏造したりとにかく国民の戦意を高揚させる為に色々やった、と言われている。そして新聞、放送などへの検閲、報道管制もありこの大本営発表はそのまま新聞などで大々的に報じられた。(まぁ新聞社などが積極的にやった、という話も聞く)
ここではこれが良かったのかどうかとかそういう事はどうでもいい。
大事なのは戦争という国家の緊急事態において情報の格付け、優先順位を決める「主体」が変わった、と考えられる事である。
これがジャーナリズムにおける大進化の典型的な例になるのだと思う。(進化とは本来中立的な意味らしいので良くなるとは限らない)
そもそも戦争状態なのだから戦争に関する情報が最も優先的に報じるべき情報であるのは当たり前ではある。だから基準自体ももちろん変わったのだけど何より主体が変わった事が大きい。基本的にはどこの国だって戦争になれば国家が情報をコントロールしようとするのであってこれは多分常識であるのだと思う。
だがこれを普通ジャーナリズムとは言わない。


http://kusanone.exblog.jp/2156662/

このブログ上で過去何度も問題になっているけど、「そんなのジャーナリズムじゃない」議論ですね、今回も。でも「ジャーナリズム」の定義って、歴史的に見てころころ変わっているんですよ。わたしの短い記者人生の中でも、ジャーナリズムの一般的な定義が変わってきているようにも思う。

上は論争の中で出てきた湯川さんの文章。
そうなのかもしれない。一見するとコロコロ変わっているように見えるかもしれない。だがより本質的に考えるなら変わっているのはジャーナリズムの「定義」ではないのだとオレは思う。変わっているのは基準やそれを決める主体の方だ。
そして今言われているジャーナリズムの変化が本当に変革と呼べるような大きなものであるのなら、そこで変わろうとしているのはまさしく「主体」の方であると考えられる。

  • 「誰が」情報の格付け、優先順位を決めるのか

問題はここだ。
そしてここまで考えればライブドア堀江社長の言った「価値判断はユーザーがすべきだ」というのは正しくジャーナリズムに対する革命的な言葉であった事が分かる。まさしくそれは主体の変化の事を言っており旧来のジャーナリズムに対する挑戦だった・・・と言いたいのだけどオレはこれでもまだ一歩足らない、と思っていてそれは後述する。


という事で改めてジャーナリズムの定義。

ジャーナリズム
ある社会、もしくは共同体の構成員全体にとって重要な、あるいは知っておくべき「情報」の格付け、報じるべき優先順位を決める事。


ジャーナリズムの変化
その価値観、基準が変わる事(小進化)
それを決める主体自体の変化(大進化)

これが過去においても現在もそしておそらく未来においても変わらぬジャーナリズムの定義になるんじゃないかと思う。
納得してもらえたかは分からないのだけど一先ずこれを前提にして以下話を進めていきます。

(2)はてなブックマークは(市民)参加型ジャーナリズムである

というわけでいよいよ本題。
ホントはソーシャルブックマークは、と言いたいとこなのだけどここではあえてはてなブックマークに限定する。
既に当ブログでは3回ソーシャルブックマークについて書いてきた。


ソーシャルブックマークのすすめ - ぶろしき
ソーシャルブックマークの可能性 - ぶろしき
ソーシャルブックマークとウェブログ図書館 - ぶろしき


もうこれを書いている時には上で書いた「ジャーナリズムの定義」は頭にあったので(うまく説明はできなかったけど)オレははてなブックマークをずっとそういう目で見て考えていた。
まずはてなブックマークについて全然知らない人には


はてなブックマークのススメ - 北の大地から送る物欲日記
はてなブックマークの可能性 - 北の大地から送る物欲日記


こちらがお勧め。タイトルがほぼ被っててびっくりなんですけど、ひじょ〜に分かりやすくまとめられています。
という事で以下これを踏まえた上で。






【ランキングとはてなブックマークの違い】
ライブドア堀江社長の考えは「価値判断はユーザーがすべき」というものだった。これは同時に読者による人気投票、ランキングを示唆しているものだと思う。
はてなブックマークにおいてもブックマークするという行為は投票的意味合いを含んでいる。個々のブックマークは集約されて最近の人気エントリーというかたちでランキングのようなものになっている。
だがいわゆるランキングとはてなブックマークのそれは同じものなのだろうか?
この疑問はそのまま何が情報かを決める新しい「主体」はホントに「ユーザー」なのか、というのにも繋がっている。


伊藤直也の「アルファギークのブックマーク」
こちらははてな伊藤直也さんによる記事。
この中で使われている例がこの辺を非常にうまく言い表しているように思う。

アレクサンドル・デュマの小説「三銃士」の物語で出てくる、「1人はみんなのために、みんなは1人のために」(All for one and one for all)という有名な台詞があります。テレビアニメ化された作品でも、主人公の若き冒険家ダルタニャンと銃士隊が剣を掲げてその志を確認し合う、お決まりのシーンで使われる名台詞です。これに対してFolksonomyは、「1人は自分のために、気付けばみんなのために」という台詞が合うなと、近ごろ思い始めました。

 FolksonomyのようなWisdom of Crowdsが成立するためには「1人はみんなのために」ではダメ。それぞれが独立分散している必要があるから「1人は自分のために」でなければならない。「みんなが1人のために」動くのではなく「気付けばみんなのために」が実現されるような優れた集約システムがなければいけない。なんて考えられます。われながらいいフレーズを思いついたものです。

Folksonomy」というのは「みんなで分類する」というような意味でこれはソーシャルブックマークの思想のことなのでここでは「はてなブックマーク」と言い換えても問題ないと思う。
でまずここでの「1人はみんなのために、みんなは1人のために」という有名なセリフ。これが実は従来のいわゆるランキング、人気投票を表していると考えられるのである。


《ランキングはみんなのために》
いわゆるランキングというものはそれに参加したからといって一票を投じたからといってそれが即自分のためになるわけではない。それが集計された結果からは何に人気があるのかという重要な情報が分かるので恩恵を受ける事になるのだけどそれは別に参加しなくても得られる。
要は割合が決まればいいので一定数集まれば統計的に正確な数字が出る。この数は集まれば集まるほど誤差は少なくなるのだけど、同時に「自分が一票を投じることの影響力」もどんどん減っていく事になるわけなので「自分のため」からもどんどん離れていくことになってしまう。
結果それに参加する人というのは「みんなのため」というのをきっちり認識しかつそれに積極的に貢献しようとするような意識の高さ、が求められる事になるので、要するにランキングとは「1人はみんなのために、みんなは1人のために」という思想に基づいているものだと考えられるのである。


《ブックマークは自分のために》
「1人は自分のために、気付けばみんなのために」というのはまさしくソーシャルブックマークの本質をついているのだとオレも思う。
とにかくブックマークする動機には色々あって一概にはいえない。何が正しいというのも基本的にない。それでも例えばこちらの記事が端的にまとまっていて非常に分かりやすいと思う。
はてなブックマークの3つの役割 - モジログ

1) 自分のクリッピング、情報整理ツール
2) いいページ、ブログエントリを紹介・発掘
3) ホットな話題にコメントする

まぁいずれにせよ自分のため、あるいは面白いから楽しいからやっているのであって「みんなのため」というのはあったとしてもその中の動機のうちの一つに過ぎない。今後これを利用する人がいくら増えたとしても、そしてそれによって一票を投じる影響力がいかに少なくなったとしてもこの「自分のため」がある限りは参加し続けるだろうと思われる。
『それぞれが独立分散している必要がある』というのも要はそれぞれが「みんなのため」など意識しない個人的事情、基準によって行う、共通のベクトルを持っていないという事だと思う。


という事でいわゆるランキングとはてなブックマークのそれは意味合いがかなり違う。
そしてこの違いが「誰が情報の格付けを行っているのか」という主体の違いをおそらく表してもいる、と考えられるのだが・・・。






【日本のマスコミは元々ユーザー指向】
『マーケットの馬車馬』さんの記事は非常に参考になるものが多い。まずはこちらの記事。


論理の嫌いな日本人(3) 武器なきマスコミの彷徨: マーケットの馬車馬
ぜひ読んで見て欲しいのですけど、要するに日本のマスコミは諸外国と比べれば元々”啓蒙”など殆どしておらず徹底した顧客視点、ユーザー指向である。というような内容。

しかし、実のところ筆者は日本の新聞を読んでいて傲慢だと感じたことはない。日本の番組から強烈に感じるのは、徹底した顧客視点だ。これはマスコミに限った話ではないが、日本の消費者は世界一厳しい。だからこそ、製造業も、サービス業も、競争原理にさらされている企業は徹底的に顧客のニーズを洗い、顧客自身も自覚していないニーズを掘り起こしてビジネスを拡大していく。そうやって日本の企業は高い競争力を手に入れた。
この顧客視点はマスコミにもしっかりと息づいている。「こんなものはニュースにならない」というフレーズは良く聞くが、これはその記事が重要度が低いかどうかではなく、そんな記事を読者は読みたいと思っていない、というニュアンスで使われているようだ。

まったくその通りであると思うのだがどうだろうか。
情報の格付けはマスコミが行っている、というのは実は「建前」なのであって実質は顧客が決めている(いた)のである。少なくとも日本においては。
そしてもしそうであるなら堀江社長のいう「価値判断はユーザーがすべき」という言葉も実は新しいジャーナリズムの事を言っているのではなく従来のジャーナリズムの建前、すなわち権威を取り払って本質をついた「だけ」の言葉であるのかもしれないのだ。


それでもジャーナリストは必要だ: マーケットの馬車馬
そしてもう一つこちらの記事から引用。

マスメディアの存在意義

つまり、マスメディアは、「多くの人が何を真実であると思っているか」を知ることが出来るからこそ存在価値がある。その記事が読まれてさえいれば、内容の良し悪しはどうでも良い問題なのだ。

そして、実のところ、世の中では「真実を知っていること」よりも、「皆が真実だと信じていること」を知っていることの方がずっと重要であることが多い。極端な場合、「皆が真実だと思っていることが真実になる」ことだってある。

〜中略〜

言い方を換えれば、いわゆる「マスメディアへの信頼性」というのは、「非常に多くの人がその新聞などを注目して読んでいることが信じられる」ということであって、そのコンテンツに対する信頼性ではないということになる。記事の中身よりも発行部数のほうが重要だということだ。

至言であると思う。
そしてこれについても実は日本的なある特殊な事情が反映されているのだと思っている。
西洋、というよりキリスト教圏の人々は「皆が真実だと信じていること」を既に知っている。「聖書」があるからだ。
もう決して書き換えられる事のない、みんなが共有している(と信じられている)情報、としての聖書があるからである。
だが日本には聖書はない。従って「それ」は常に再生産され続けなければならない。日本人が「みんなが何を知っているか」に非常に敏感であるのはそれがその時その瞬間にしか存在しないものであるから、ではないかと思う。
そしてそのニーズに徹底的に答えてきたのが日本のマスメディアなのだと思われる。
(関連)
社会を支える「固定点」 - ぶろしき
固定点としての既存メディア - ぶろしき






【誰が情報の格付けを行うのか】
とりあえずここまでの話のまとめ。

  • はてなブックマークはいわゆるランキングとは意味合いがかなり違う。個々のブックマーカー達はあくまで「自分のため」に好き勝手に行っている。それが集約されていつのまにか「みんなのため」になっている。
  • 堀江社長は「価値判断はユーザーがすべき」と言ったがそもそも従来のマスメディアも過剰にユーザー指向だったのであり、今はユーザーのニーズを掴み損ねているに過ぎないので実は対した違いはなかったりする。
  • 「みんなが何を真実であると思っているか」を知ることが最も重要。「みんなが共有している(するべき)情報」は日本においては常にその時その瞬間に作られ続ける。(場合によっては捏造される)

まず一つ注意して欲しいのはここで「みんな」と言っているのはとりあえず現状においては「はてなユーザー」である事だ。
改めてジャーナリズムの当ブログでの定義。

ジャーナリズム:
ある社会、もしくは共同体の構成員全体にとって重要な、あるいは知っておくべき「情報」の格付け、報じるべき優先順位を決める事。

ジャーナリズムの変化:
その価値観、基準が変わる事(小進化)
それを決める主体自体の変化(大進化)

つまりこの共同体の最小単位としてはてなユーザーという緩い(場合によっては濃いw)共同体は成立しつつつあると思っているのだけどその範囲に限った話である。ひょっとするともう既にそれ以上の範囲にも拡大してるのかもしれないし、そして今後それはどんどん拡がっていく可能性も大きいと思っているけども一先ずそういう話。
重要なのは大きさではなく「かたち」であって、要はそこでどんな新しいモデルが成立しているのか、なんだと思う。
今起こっている事は確実にジャーナリズムの大進化、つまりは情報の格付けを行う「主体の変化」の方であると考えている。
だがそこで起こっているのは


マスコミ(マスメディア)→ユーザー(インターネット)


ではおそらくない。なぜなら今までだって少なくとも日本においては実質的にそれを決めていたのはユーザー(顧客)であったと考えられるからだ。
そして「ユーザー」というある属性によるまとまり、一定の方向性を持ったものが決めるならそれは結局「一人はみんなのために」というランキングの思想に行き着かざるを得ない。
(今行われている選挙もランキングの思想である。投票するのは「国民」だからだ。やはり「一人はみんなのために」投票にいくのだろう。そしてそこでは多数を取らなければまったく意味がない)
でははてなブックマークでの投票はどうだろうか。
改めてはてなの伊藤直也さんの記事から別な部分を引用。

つまり、Wisdom of Crowdsが形成されるためにはいくつかの条件があるようです。書籍によるとその条件とは、以下のようになります。


個が互いに独立していること
個が分散していること
個が多様であること
個を集約する優れた仕組みがあること

これ以外にも
>“個”をひたすらに集めた個の集合体、集合知です
という言葉もある。
これがどういう意味を持つのか。
はてなブックマークにおいて「知っておくべき情報の格付け、報じるべき優先順位を決め」ているのは”個”であるという事だ。それは「はてなユーザー」というある一つのまとまり、が決めているのでもなく「はてなユーザーのため」に行なわれているのでもない。互いに独立分散していて多様である一定のベクトルを持っていない”個”がそれぞれ好き勝手に行っている。あるいはそういうものでなければ意味がない、ものなのである。
これは「Folksonomy」という新しい分類の思想によるタグの共有も事情は同じ。例えば上の伊藤さんの現在87usersされている記事のブックマーク画面。ここでのそれぞれ好き勝手に付けられたタグの集合、がその視覚的イメージとしても分かりやすいと思う。
で。
これが結局「誰が」情報を格付けするのか?という疑問への答えにもなっていると考えられる。つまりは

  • ジャーナリズムの大進化、共有すべき情報の格付けを行う新しい主体とは「個」である。

というのがオレの結論。これが新しい参加型ジャーナリズムの本質であり核心部分。
そしてここでのジャーナリズムの定義上、(市民)ジャーナリストとは「記事を書く人」の事ではなく「情報に格付けを行う人」の事なのでそれは個々のはてなブックマーカーである、という結論にもなる。






【情報を共有すること】
ではそうして個々のブックマークの集約されたもの、についてはどうだろうか。
例えば全体の0.01%しかないという100ブクマ以上された記事については。
それは「みんな」に共有されている、と信じられ始めている・・・ように思われるのだがどうだろうか。もちろんここでの「みんな」とは「はてなユーザー」のことだ。
改めて馬車馬さんの文章から。


>いわゆる「マスメディアへの信頼性」というのは、「非常に多くの人がその新聞などを注目して読んでいることが信じられる」ということ


実際にはてなユーザーがどの程度共有しているのか、はここでは問題にならない。それを多くの人が信じている、ことが信じられさえすればそれでいい。


>マスメディアは、「多くの人が何を真実であると思っているか」を知ることが出来るからこそ存在価値がある


ブックマークには短いセンテンスのコメントが付けられるようになっている。実はそこを読むと結構「みんながそれをどの程度真実であると思っているか」が分かったりする。(もちろんある程度付いてなければダメだけど)
これは今までのマスメディアには殆ど無かった部分で(あるいはあったとしても殆ど「捏造」だった。雑誌や新聞の読者欄など)凄い重要な価値を持っているところだと思う。
で。
もしこれらのものが「みんな」に共有されているなら、もしくはそれが信じられているのなら、
情報の共有されている範囲=はてなユーザー
と逆説的に表現することも可能なのではないかと思う。
いずれにせよ。
このはてな共同体の構成員が共有するべき、あるいは知っておくべき情報は個々のブックマーカー、つまりは「(市民)ジャーナリスト」によって格付けされている、という「かたち」になっているわけである。
(それとたくさんブクマされる記事の質が高いとは限らない、とよく言われるのだけど評価軸は多分そこではない。多くブクマされる記事には「共有しておくべき情報」という意味合いの方が強いのだと思う。そしてそれは必ずしも質の高さを意味するわけではない)






【取材の可能性】
つい最近はてなブックマーク投げ銭システムが実装された。
はてなの投げ銭システムについて色々考えてみた - ぶろしき
オレもここから5回分書いたのだけどこれが非常に重要な可能性を持っている事に気付いた。
ブログ作者に投げ銭を - jkondoのはてなブログ

ひとつの答えが、「読んでから課金をする」というモデルだと思います。文章を読んで、その文章には10円の価値があると思ったら作者に10円を支払う。そういう事は不可能ではないはずです。

これに最初は騙されたwのだけどどうやらこれは投げ銭システムの可能性の半分でしかないようである。
ホントはもう一つ「集めてから出す」という重要な可能性もこの投げ銭システムは秘めている。
例えばある企画とそれに掛かる経費を記事としてUPする。それに強い興味を持つ人がたくさんいて経費の分が集まれば「集めてから出す」事が出来る。たくさんの読者を抱えていてなおかつある程度以上の信頼が担保されているような有力ブロガー、ならこれが可能ではないだろうか。あるいははてなにそういう企画の集まる場所を作るのもいい。読み手はそこを見て面白そうな企画に投資する、という感じ。むしろこっちの方が色んな意味でいいと思うが・・・
いずれにせよこれによって「取材の可能性」は開かれた、と考えていいのではないかと思うのである。
「取材がなければジャーナリズムとは言えない」とはお金にならなければダメ、という事でもあると思うがネット上ではタダでもやる人はたくさんいる。だがマイナスになる事をやるのは流石に難しい。もしお金が掛かるから出来なかった事、ができるようになれば全体のコンテンツの質もかなり向上するのではないだろうか。
ひょっとするともう既に「ブログには取材がないからジャーナリズムとは言えない」とは言えない・・・のかもしれない。







というわけで以上が「はてなブックマークは(市民)参加型ジャーナリズムである」とオレが考えてる理由です。
ここで改めて一番最初の記事の湯川さんへの松岡さんの突っ込み「質を問うことと誰もが平等に参加できる事の矛盾」に答えたいです。要するに

  • 誰もが参加できるジャーナリズムとはソーシャルブックマークの事である。そこでは基本的には誰もが平等に一票の影響力を持つ事ができる。だが「たくさんブックマークされる記事」やそれを書く人は極わずか。そこでは当然にして質が問われる。

という事。(まぁ質が高いから多くブクマされるわけではないのだけど)
これで何の矛盾もないと思うのだけどどうだろうか。
更に言うとはてなブックマークという「参加型ジャーナリズム」の成立は同時に全てのブログ、ブロガーを(市民)記者化する。好むと好まざるとにかかわらず・・・という事でもある。


(え〜ここまでの(1)(2)で一先ず本論は終わりです。一気に読んでくれた人はお疲れ様でした。下に(3)が続いてしまうわけですですけど一気に読むのは大変だと思うんでまたヒマな時に読んでください〜。)

(3)「庶民」による江戸時代型ジャーナリズムの過去、もしくは未来

ここまでの話の中で(市民)はずっとカッコ付きで表現してきた。
なぜかというとオレはこの「市民」という言葉に物凄い違和感を持っているからである。
日本において「市民」とは極めてイデオロギッシュな言葉だ。少なくともオレは「市民」などというアイデンティティは持っていない。市民税を払っている、という以外のどんな市民でもありえない。(・・・といいつつ不覚にも「はてな市民」であったりする。でもはてな市民でしか出来ないことは今のところ一つもやっていないのでまぁいいかな〜と)
佐伯啓思という人に『「市民」とは誰か―戦後民主主義を問いなおす』という著作があって、ここでこの辺の違和感について詳しく書かれている・・・と思うのだけどあいにく未読なのでたいした事は言えない。
だが湯川さんが
http://kusanone.exblog.jp/2156662/

さて山川草一郎さんのご指摘の通り、わたしはジャーナリズムがいずれ社会改良運動になっていくのではないかと思っている。というか、ジャーナリズムはもともと社会改良運動だったはず。社会運動家の言論活動だったジャーナリズムを20世紀にメディア企業が独占した。だが21世紀にはジャーナリズムが再び社会改良運動と1つになっていく、というのがわたしの予測である

と考えているのも、松岡さんがそこに理想的平等主義のにおいを感じるのも至極当然であると言えば言える。
それは最初の命名において前提されていたのだとオレは思う。
そしてもしそうであるとすると本来それが指向しているはずの「誰もが参加できる」というのが実は成り立たなくなってしまうのだ。少なくともここに「市民」などというアイデンティティを持たない人間が一人いる。他にもまぁ大体右よりの考えを持っている人の大半はおそらく自分のことを「市民」などとは考えていないだろう。そういう人は当然それに参加する事ができないのである。
どちらかというとこの矛盾の方が問題は大きいとオレは思うのだが、そういうわけでオレとしてはこの「市民」に変わる新しい命名が欲しい。
そこで考えたのがまぁ「庶民」になるのだけど下はgoo辞書の定義。

しょみん 1 【庶民】


(1)一般の市民。社会的特権をもたないもろもろの人。
(2)貴族や武士に対して、一般の人々。平民。庶人。

・・・結局市民かよ!だったりするけどまぁ言いたい事は「社会的特権をもたないもろもろの人」こっちの方。
ここで注意して欲しいのは、じゃあ特権を持っている人は参加できないじゃないか、という事なのだけど重要なのはこれがネット上に成立するものである点。
オレはブログは無名性をもって書かれるべきであると考えている。はっきり言えばネットに実名性を持ち込むのは「野暮」であるとも。もちろん持ち込んだって構わないのだけどその場合この参加型ジャーナリズムには参加できない。(もちろんブックマークの方。ってオレが言ったところでどうなるもんでもないんだけどw)
もちろんHNなら参加できる。わけなので要は「現実世界の社会的特権の影響を直接的に与えないかたちで参加」する事によって「誰もが平等に参加できる」という理想が叶えられる、と思っているのである。
しかし「庶民」にしたい理由はこれだけではない。
元々日本におけるジャーナリズムとは庶民のものであった、というのが以下の話。






【江戸時代のジャーナリズム】
よく知られているのは新聞の原型と言われる瓦版だが、他にも色々なものがある。
そこで興味深いのは江戸時代の情報メディアと現在のネット世界の「それ」の類似性である。
色々調べてみてその面白さに気付いた。
NTTデータ公式サイト
以下この辺から分かった事を並べて見ます。

  • 瓦版
    • (引用)『昔の情報伝達の機関として読売り、いわゆる、瓦版売りがいます。今のジャーナリズムの起源なんていう立派なものではなくて、大部分は歌が流行っているけど、皆、正確に歌詞が分からないというところに歌いながら売るわけです。だいたい、こんな編笠かぶっていたんですから、あまりまともな商売ではないんです』逆にそういうものが本来の日本のジャーナリズムだったのだと考えればこういうのはいかにもネットに溢れている。マイアヒフラッシュとか(笑)
  • 歌舞伎
    • (引用)『それから、情報という言葉をあえて使えば、今、私たちはお芝居というのは芸術であって、何かオペラ座みたいなところに行って観るもの、という感じがあるのですが、江戸の芝居は違います。もう少しジャーナリスティックなもので、心中事件があったりすると、それを美化して表現していたようです』事件を美化するって要はネタとして楽しんでいたわけである。これは何でもネタとして楽しんでしまう2チャンネル精神といったところ。
  • 浮世絵
    • 浮世絵には歌舞伎の役者たちを写した錦絵などがあるがこれは現在でいうとアイドルのプロマイドといった感じのようだ。アイドルならネットでも物凄い強い。
  • 春画
    • はエログロ。ネットもエログロ。
  • 火事と喧嘩は江戸の花
    • 炎上と議論はブログの花

・・・どうだろうか。何かこう異常な類似性、みたいなのを感じないだろうか。無理やりこじつけている、といえばそうかもしれないけどもw
重要な点はこれらのものは上からの権威付けを必要としない、庶民の庶民による庶民のための「何か」であったこと。
ちなみにトリビアを一つ紹介。
http://shunsen.art-museum.city.minami-alps.yamanashi.jp/OSUSUME/ukiyoe-qa/

Q:浮世絵とは?

A:「浮世絵」は江戸時代に生まれた言葉ですが、「うきよ」といえば江戸時代以前の戦国時代の頃には、「憂世」といって、今生きているこの世の中を辛く苦しい世界だという意味につかわれていました。その後、関ヶ原の戦を経て徳川幕府が開かれると、戦乱の世の中に平和がおとずれます。すると人々は、今生きている世の中が心浮き立つような楽しい世界であるという思いになり、「うきよ」も「憂世」から「浮世」へと変化しました。江戸時代の書物をみると「浮世風呂」「浮世草子」「浮世傘」と「浮世」と名のつくものがたくさん出てきますが、「浮世絵」もそのひとつなのです。
そのため浮世絵に描かれている内容は、人々をわくわくさせるような (1) 美人 (2)役者(歌舞伎役者) (3)風景という、三つが中心に描かれるのです。

戦国時代まで日本では「うきよ」とは「憂世」の事であった。これは同時にそれまでの日本人の世界観を表してもいる。
だが江戸の平和は日本人の世界観を大きく変えた。それが「浮世」という当て字には表されているらしい。
翻って現在多くの人は現実社会を「憂世」と考えていないだろうか。少なくともネットの世界ではそういう言葉が溢れている。現実社会をいわば「資本主義戦国時代」と見なす事もできる。
だが逆にネットの中で完結している世界においては「浮世」という形容がぴったりくるようなそんな感じがしないでもない・・・。


まだある。
http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson6.html

杉浦日向子さんの『一日江戸人』によれば、江戸時代、生粋の江戸っ子の中には定職に就かない人間がずいぶんいたということです。結婚して子供がいる男でさえ、食う物がなくなるとひょこっと町に出ていって薪割りなどをやって日銭を稼いでいました。まさに食うために必要なだけ働くという生き方ですね。
〜中略〜
慶應元年(1865年)、麹町12丁目。143人の戸主(世帯主)のうち、38人が日雇い仕事で暮らしていました。約26%です。同年、四谷伝馬町新一丁目では96人中13人で14%。こちらは住民に武士が多い土地柄なので、数字が低くなっています。慶應3年、宮益町では172人中69人で40%にものぼります。さすがに現代の日本で、世帯主の4割がフリーターという話は聞きません。江戸の世では、結婚してもフリーターでいるのがおかしくなかったのです。

江戸の町民のおよそ3割ぐらいは定職に付かないフリーターだったらしい。『仕事を細分化することでワークシェアリングが実現されて』いたようである。


まだまだ。
ブログに必要なのはコンテンツのコミュニケーション化?(5) - ぶろしき
ここで紹介したが岡田斗司夫はその著作『オタク学入門』において「オタク文化は職人文化の正統後継者である」という主張をしている。ここでの職人文化とは江戸の大衆文化の事を指す。
ブログ界は「銭湯文化」の正統後継者と成りえるのか?(前編) - ぶろしき
ブログ界は「銭湯文化」の正統後継者と成りえるのか?(後編) - ぶろしき
自然+主観=公? - ぶろしき
これはオレの主張w
銭湯文化の成立もまた江戸時代なんである。






【趣味のジャーナリズム】
どうだろうか。
オレが考えるとなぜか最後には「江戸」に行き着いてしまう。あらゆるものは「江戸」というベクトルを指し示しているようにオレには見える・・・。
ひろゆき氏や切込隊長が語る「ネット上の合意形成」~GLOCOM forum 2005
最近ネット上で話題になったこの記事の中で「趣味のジャーナリズム」という言葉に出会った。
話の文脈上これの意味するところは仕事ではなく余暇で行われるアマチュアの、という程度のものである。
だが今オレがイメージしているのは”目的”としての趣味のジャーナリズムだ。

  • 「庶民」による粋で通な浮世のジャーナリズム

そういうようなものである。
そしてそれは既に「そこ」にあるように見える。


やはり変わるべきは「社会」などではなく人の意識の方なんじゃないだろうか。
見方が変われば世界も変わる。
それまで無価値と思われていたものに大きな価値が見出される、かもしれない・・・。




最後にまたこちらからの引用。
NTTデータ公式サイト

イギリスの初代駐日公使のオールコックは、日本人大衆の顔に浮かぶ満足感と幸福感は見誤りようもない、と書いています。これはどういうことかというと、上層階級と一般大衆の間があまりにもかけ離れていて関係性が薄いため、階級間に支配―被支配が露骨にあらわれてこなかったために、一般大衆には私たちが想像している以上の真の自由があったかもしれないと、考えていたわけです。

それから、幕府の海軍を近代化するために来たカッティンディーケという海軍士官がいます。日本の下層民は、世界のいずれの国のよりも大きな個人的自由を享受しており、彼らの権利は驚くほど尊重されていると思う、と記しています。なぜかというと、カッティンディーケも、下層民は上層民とまったく関係がないと見ているのです。

この話を読んでこれもまたネット上で話題になった『希望格差社会』という本に絡めて語られた日本の将来予測「二極化社会」というものをオレは思い出した。
「二極化社会」という未来予測もフリーターやニートの将来もそれはホントに今考えられているような不幸で絶望的なものなんだろうか?


何か重大な思い違いをしている・・・そんな気が今している。






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