(3)「庶民」による江戸時代型ジャーナリズムの過去、もしくは未来

ここまでの話の中で(市民)はずっとカッコ付きで表現してきた。
なぜかというとオレはこの「市民」という言葉に物凄い違和感を持っているからである。
日本において「市民」とは極めてイデオロギッシュな言葉だ。少なくともオレは「市民」などというアイデンティティは持っていない。市民税を払っている、という以外のどんな市民でもありえない。(・・・といいつつ不覚にも「はてな市民」であったりする。でもはてな市民でしか出来ないことは今のところ一つもやっていないのでまぁいいかな〜と)
佐伯啓思という人に『「市民」とは誰か―戦後民主主義を問いなおす』という著作があって、ここでこの辺の違和感について詳しく書かれている・・・と思うのだけどあいにく未読なのでたいした事は言えない。
だが湯川さんが
http://kusanone.exblog.jp/2156662/

さて山川草一郎さんのご指摘の通り、わたしはジャーナリズムがいずれ社会改良運動になっていくのではないかと思っている。というか、ジャーナリズムはもともと社会改良運動だったはず。社会運動家の言論活動だったジャーナリズムを20世紀にメディア企業が独占した。だが21世紀にはジャーナリズムが再び社会改良運動と1つになっていく、というのがわたしの予測である

と考えているのも、松岡さんがそこに理想的平等主義のにおいを感じるのも至極当然であると言えば言える。
それは最初の命名において前提されていたのだとオレは思う。
そしてもしそうであるとすると本来それが指向しているはずの「誰もが参加できる」というのが実は成り立たなくなってしまうのだ。少なくともここに「市民」などというアイデンティティを持たない人間が一人いる。他にもまぁ大体右よりの考えを持っている人の大半はおそらく自分のことを「市民」などとは考えていないだろう。そういう人は当然それに参加する事ができないのである。
どちらかというとこの矛盾の方が問題は大きいとオレは思うのだが、そういうわけでオレとしてはこの「市民」に変わる新しい命名が欲しい。
そこで考えたのがまぁ「庶民」になるのだけど下はgoo辞書の定義。

しょみん 1 【庶民】


(1)一般の市民。社会的特権をもたないもろもろの人。
(2)貴族や武士に対して、一般の人々。平民。庶人。

・・・結局市民かよ!だったりするけどまぁ言いたい事は「社会的特権をもたないもろもろの人」こっちの方。
ここで注意して欲しいのは、じゃあ特権を持っている人は参加できないじゃないか、という事なのだけど重要なのはこれがネット上に成立するものである点。
オレはブログは無名性をもって書かれるべきであると考えている。はっきり言えばネットに実名性を持ち込むのは「野暮」であるとも。もちろん持ち込んだって構わないのだけどその場合この参加型ジャーナリズムには参加できない。(もちろんブックマークの方。ってオレが言ったところでどうなるもんでもないんだけどw)
もちろんHNなら参加できる。わけなので要は「現実世界の社会的特権の影響を直接的に与えないかたちで参加」する事によって「誰もが平等に参加できる」という理想が叶えられる、と思っているのである。
しかし「庶民」にしたい理由はこれだけではない。
元々日本におけるジャーナリズムとは庶民のものであった、というのが以下の話。






【江戸時代のジャーナリズム】
よく知られているのは新聞の原型と言われる瓦版だが、他にも色々なものがある。
そこで興味深いのは江戸時代の情報メディアと現在のネット世界の「それ」の類似性である。
色々調べてみてその面白さに気付いた。
NTTデータ公式サイト
以下この辺から分かった事を並べて見ます。

  • 瓦版
    • (引用)『昔の情報伝達の機関として読売り、いわゆる、瓦版売りがいます。今のジャーナリズムの起源なんていう立派なものではなくて、大部分は歌が流行っているけど、皆、正確に歌詞が分からないというところに歌いながら売るわけです。だいたい、こんな編笠かぶっていたんですから、あまりまともな商売ではないんです』逆にそういうものが本来の日本のジャーナリズムだったのだと考えればこういうのはいかにもネットに溢れている。マイアヒフラッシュとか(笑)
  • 歌舞伎
    • (引用)『それから、情報という言葉をあえて使えば、今、私たちはお芝居というのは芸術であって、何かオペラ座みたいなところに行って観るもの、という感じがあるのですが、江戸の芝居は違います。もう少しジャーナリスティックなもので、心中事件があったりすると、それを美化して表現していたようです』事件を美化するって要はネタとして楽しんでいたわけである。これは何でもネタとして楽しんでしまう2チャンネル精神といったところ。
  • 浮世絵
    • 浮世絵には歌舞伎の役者たちを写した錦絵などがあるがこれは現在でいうとアイドルのプロマイドといった感じのようだ。アイドルならネットでも物凄い強い。
  • 春画
    • はエログロ。ネットもエログロ。
  • 火事と喧嘩は江戸の花
    • 炎上と議論はブログの花

・・・どうだろうか。何かこう異常な類似性、みたいなのを感じないだろうか。無理やりこじつけている、といえばそうかもしれないけどもw
重要な点はこれらのものは上からの権威付けを必要としない、庶民の庶民による庶民のための「何か」であったこと。
ちなみにトリビアを一つ紹介。
http://shunsen.art-museum.city.minami-alps.yamanashi.jp/OSUSUME/ukiyoe-qa/

Q:浮世絵とは?

A:「浮世絵」は江戸時代に生まれた言葉ですが、「うきよ」といえば江戸時代以前の戦国時代の頃には、「憂世」といって、今生きているこの世の中を辛く苦しい世界だという意味につかわれていました。その後、関ヶ原の戦を経て徳川幕府が開かれると、戦乱の世の中に平和がおとずれます。すると人々は、今生きている世の中が心浮き立つような楽しい世界であるという思いになり、「うきよ」も「憂世」から「浮世」へと変化しました。江戸時代の書物をみると「浮世風呂」「浮世草子」「浮世傘」と「浮世」と名のつくものがたくさん出てきますが、「浮世絵」もそのひとつなのです。
そのため浮世絵に描かれている内容は、人々をわくわくさせるような (1) 美人 (2)役者(歌舞伎役者) (3)風景という、三つが中心に描かれるのです。

戦国時代まで日本では「うきよ」とは「憂世」の事であった。これは同時にそれまでの日本人の世界観を表してもいる。
だが江戸の平和は日本人の世界観を大きく変えた。それが「浮世」という当て字には表されているらしい。
翻って現在多くの人は現実社会を「憂世」と考えていないだろうか。少なくともネットの世界ではそういう言葉が溢れている。現実社会をいわば「資本主義戦国時代」と見なす事もできる。
だが逆にネットの中で完結している世界においては「浮世」という形容がぴったりくるようなそんな感じがしないでもない・・・。


まだある。
http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson6.html

杉浦日向子さんの『一日江戸人』によれば、江戸時代、生粋の江戸っ子の中には定職に就かない人間がずいぶんいたということです。結婚して子供がいる男でさえ、食う物がなくなるとひょこっと町に出ていって薪割りなどをやって日銭を稼いでいました。まさに食うために必要なだけ働くという生き方ですね。
〜中略〜
慶應元年(1865年)、麹町12丁目。143人の戸主(世帯主)のうち、38人が日雇い仕事で暮らしていました。約26%です。同年、四谷伝馬町新一丁目では96人中13人で14%。こちらは住民に武士が多い土地柄なので、数字が低くなっています。慶應3年、宮益町では172人中69人で40%にものぼります。さすがに現代の日本で、世帯主の4割がフリーターという話は聞きません。江戸の世では、結婚してもフリーターでいるのがおかしくなかったのです。

江戸の町民のおよそ3割ぐらいは定職に付かないフリーターだったらしい。『仕事を細分化することでワークシェアリングが実現されて』いたようである。


まだまだ。
ブログに必要なのはコンテンツのコミュニケーション化?(5) - ぶろしき
ここで紹介したが岡田斗司夫はその著作『オタク学入門』において「オタク文化は職人文化の正統後継者である」という主張をしている。ここでの職人文化とは江戸の大衆文化の事を指す。
ブログ界は「銭湯文化」の正統後継者と成りえるのか?(前編) - ぶろしき
ブログ界は「銭湯文化」の正統後継者と成りえるのか?(後編) - ぶろしき
自然+主観=公? - ぶろしき
これはオレの主張w
銭湯文化の成立もまた江戸時代なんである。






【趣味のジャーナリズム】
どうだろうか。
オレが考えるとなぜか最後には「江戸」に行き着いてしまう。あらゆるものは「江戸」というベクトルを指し示しているようにオレには見える・・・。
ひろゆき氏や切込隊長が語る「ネット上の合意形成」~GLOCOM forum 2005
最近ネット上で話題になったこの記事の中で「趣味のジャーナリズム」という言葉に出会った。
話の文脈上これの意味するところは仕事ではなく余暇で行われるアマチュアの、という程度のものである。
だが今オレがイメージしているのは”目的”としての趣味のジャーナリズムだ。

  • 「庶民」による粋で通な浮世のジャーナリズム

そういうようなものである。
そしてそれは既に「そこ」にあるように見える。


やはり変わるべきは「社会」などではなく人の意識の方なんじゃないだろうか。
見方が変われば世界も変わる。
それまで無価値と思われていたものに大きな価値が見出される、かもしれない・・・。




最後にまたこちらからの引用。
NTTデータ公式サイト

イギリスの初代駐日公使のオールコックは、日本人大衆の顔に浮かぶ満足感と幸福感は見誤りようもない、と書いています。これはどういうことかというと、上層階級と一般大衆の間があまりにもかけ離れていて関係性が薄いため、階級間に支配―被支配が露骨にあらわれてこなかったために、一般大衆には私たちが想像している以上の真の自由があったかもしれないと、考えていたわけです。

それから、幕府の海軍を近代化するために来たカッティンディーケという海軍士官がいます。日本の下層民は、世界のいずれの国のよりも大きな個人的自由を享受しており、彼らの権利は驚くほど尊重されていると思う、と記しています。なぜかというと、カッティンディーケも、下層民は上層民とまったく関係がないと見ているのです。

この話を読んでこれもまたネット上で話題になった『希望格差社会』という本に絡めて語られた日本の将来予測「二極化社会」というものをオレは思い出した。
「二極化社会」という未来予測もフリーターやニートの将来もそれはホントに今考えられているような不幸で絶望的なものなんだろうか?


何か重大な思い違いをしている・・・そんな気が今している。






◆関連記事
江戸時代研究の休み時間
専門家による江戸時代に関するブログ。興味深いです。
「産業」よりも「文化」- 国内のブログとネットコミュニティ | デジモノに埋もれる日々
これに改めて納得。お勧め。
〜大ブロ式〜−まとめ
今まで書いてきたものは大体何らかのかたちで関連してると思います。一応関連が特に強いのは「メディア」カテゴリーかな。