「疑似科学」という批判は科学の敗北である

なぜかブログが書きたくなったので唐突に。


疑似科学」を科学の側が対象を批判する目的で使うのは間違っている。
対象ないし現象について科学が取るべき立場は、それが科学のどの分野に相当するかを適切にカテゴライズすることであって批判することではない。もしそれを適切に説明できる分野がなければ新たに作ればいいだけの話。
水からの伝言」は心理学の問題プラシーボ効果です、とかなんでもいいがとにかくなんでも説明してしまうのが科学の強み。
カテゴライズの隙を突く動物の戦略は「擬態」であるが、誰もそれを間違っているとか卑怯とは言わない。
人間界において擬態はなぜか常に倫理的問題に触れてしまうが、別にだからといって科学がそれに習う必要はない。

むしろ問題がより大きいのは、科学の側がその範囲を超えて社会に干渉してくることのほうだ。
ナチスにおける「優生学」の存在が分かりやすいが、こういうものをこそ「疑似科学」と社会の側から科学の側への批判として用いるべきだと思う。
水にありがとうと言うくらい、神社にお参りするのと同じ距離感で見守れないものなのかどうか。
ナチスより隣の変人のが怖いというのはわからんではないが。


今から見れば「優生学」はいわゆる疑似科学なのかもしれないが、当時は最新の科学でもあり、科学を根拠とした政治的主張というのに対抗するのは同じ科学の別な立場によるか、そもそも科学と政治的決定との関連のなさを指摘するかだろう。
人間を動物と見なせば生物学、内面を問題にするなら心理学、社会学、経済学、歴史学統計学とそれぞれの立場から色々な助言が得られるだろうが、いずれもそれのみから政治的結論が得られるというものではありえない。
大体科学はその定義からして未来のことは予測はしえても決定はしないものである。
いかにしてそうなったか、というのは全て起こった出来事を起点にした過去に属したことがらだからだ。


サイコロの次に出る目は過去の出来事(例えば1が10回連続で出続けている)から一切の影響を受けない。
科学は次に1の出る確率は6分の1と予測をすることができる。
しかし1を出すことは決してできないし、してはいけない。
その時点で観測者の資格を失なってしまうから。


原理的には単純明快。
が実際は難しい。
1の出やすい振り方、を研究することはできるので(というかツボ振リは現にできる)その結果次に1のでる確率を3分の1にできる、としてそれはいいのか。
あるいは「今日雨の降る確率は50%です」それを聞いた人の半分は傘を持っていくのか。「99%です」なら皆持っていくのか、まぁ当然持っていくだろう。それなら明日の我々の行動が科学的に決定されていると言えるのか否か。


顕微鏡の中に異世界を発見し、歓喜した牧歌的な時代ではもはやない。
最近目覚しい成果をあげているらしい「ビッグデータ」などは典型なのだろうが、詳しく知らないのでわからない。
そうわからんのである。最新の科学の成果をいうものは。


神はサイコロを振らない」の真意はともかく、今むしろいつのまにか「人間はサイコロを振れない」問題があるんではないかと思う。




***





「理不尽な進化」という進化論の本を読んでいて、最後のほうのグールドの「歴史」に対する認識、それを筆者の吉川浩満が擁護しようとしてる部分で読み進めるのが止まっている。ここでいう「歴史」について色々考えてる途中だが、ラグビーでも「歴史を変えた」という表現が普通にされているけども、そこでいう歴史も何なのか今一つよく分からない。上記の話はそれに関係してるので改めて。

老人をどう見るか問題

我々が一人分の子育てを犠牲にしてまで、あなた方に貢ぎ続けた代わりに我々が得るものは一体なんなのか。

404 Blog Not Found:備忘録 - そもそもなぜ老は敬われてきたのか

ネット世界における一つの典型的な見方であると思う。
「おばあちゃん仮説」が引用されているが、なるほど古い知恵は大切だ。それがいかに現代に継承されていないか。


日本には「還暦」という言葉がある。この言葉には長い歴史の中で培われてきた日本人の知恵や洞察がつまっているように思う。
干支(十干十二支)がちょうど一巡して、数えで61歳になると還暦。その日には赤い衣服を贈る習わしになっている。赤い衣服とは赤ん坊の産着の意。人は60を境に赤ん坊に還る、ないし還っていく。
これは一年ほど老人福祉の現場に関わっていたオレの経験とも合致する。「デイケアサービス」というのがいったいどういうところか。それは「老人のための保育園」である。人に聞かれた時はそう説明してきた。それで充分伝わる。
「痴呆」とは実に象徴的な症状であり、赤ん坊の成長過程をそのままひっくり返したかのよう。どんどんモノを忘れて出来ていた事が出来なくなっていく。


老人は知恵を持っていたから尊敬された、なんていったいいつの時代の話か。そんな素朴な見方をする段階はとっくの昔に過ぎ去っている。長生きする人も痴呆になる人も昔からいたわけで、現代的問題はその数が多いという割合の問題でしかない。「老人をどう見るか」という根本的なところが変わるわけでもなく、そしてそこには日本の長い歴史の文脈があり、積み重ねられてきた洞察がすでにある。


老人を大切にするあまり子供をないがしろにしている。具体的にいうなら急増する老人の為の施設を作った分、子供の為の施設(産科や保育園)が減っている。そんな因果関係がホントに存在するのか。
それぞれ事実としては存在しているかもしれないが、この二つが因果関係で結ばれているとはオレには思えない。それはある一つの現象の別な表現、コインの裏と表であるのだと思う。
すなわち、我々は老人を大切にしていないのと同じ原因、理由によって、子供も大切にしていない。




介護の世界において、直接現場で老人の面倒をみているのはやはり圧倒的に女性が多い。彼女らのうちの何人かにはまだ小さな子供が居て、家では育児、仕事で老人を介護をしていることになる。形式は違えど今も昔もやっていることは変わらんのだなと思う。核家族もくそもない。ことこの方面に関しては女性にはかなわないと思うが、そのプロフェッショナルである彼女たちが痴呆の進んだ老人らをどう表現しているか。
「かわいい」のだという。男からするとまったく理解不能であるが、しわくちゃの涎を垂らしたようなジジババを「かわいい」と感じるらしい。
深い知恵を持った尊敬すべき老人、なんてひょっとしたら元々男のロマンが生み出した妄想上の存在なのかもしれない。実際妙なプライドを引きずっている老人(多くはジジイ)はこういう施設では嫌わているようだ。DanKogaiのような人がもし何かの間違いでこういう施設にいくようなことがあればまず間違いなく嫌われるね。ダンゲンしてもいい。


結局彼女らからしてみれば子供も老人も対して変わるものではない。もしそこに何がしかの敬意があるとしても、それは「知恵があるから」とか「役に立つから」というような損得勘定からくるものではありえない。
かつては「七つまでは神の子」と言われていた。それをひっくり返せば老人もいづれ「神のもの」になっていくと考えられていたのだろう。白土三平の『カムイ伝』によれば、江戸時代には100歳を過ぎた人は治外法権になるという法律が実際にあったらしい。


人間社会の約束事の及ばない領域。我々がかつて持っていた敬意とはそういう世界に対するものが根拠になっていたのだろうと考えられる。
いったい何を大切にしていないのか、は明白だろう。

(3)言語世界改造説

とりあえずここまでの流れ。

  1. 意識とは覚醒と睡眠が脳において同時的に成立している状態
  2. 半覚=五感の参照、半睡=海馬の参照
  3. 睡眠時の脳は身体の改造の為の情報処理をしている
  4. その出力器官の一つが脳下垂体ではないか


「覚醒と睡眠が脳において同時的に成立している状態」を意識としてみたわけだが、しかし人間にとっての意識はそれだけで説明できるものではない。言語活動は人の意識にとって不可欠であり、意識と言語とは同じものの別な表現と言っていいぐらいのものがある。
『意識睡眠起源説』でイルカが意識を持っている可能性について考えたが、しかしそこに言語が存在しないとすればその意識は仮にあったとしても、我々の想像を絶する。自分自身についても言語習得前、すなわち「物心つく前」にどのようだったのか覚えていないのは当然として、想像も難しい。
というわけでここまでの文脈から「言語とは何か」についての一つの見方を示し、一先ずこの話を終わりにしようと思う。



アナロジーとしての言語

言語とは何か、という問いは矛盾をはらんだ設問である。それに言語で答えなければならないのだとしたら、いったいそこに答えはあるのかという。意識というのが人間にとって扱いづらいのも同じ理由によっているのだろう。
ここで試みようとする説明とは要するにアナロジーである。言語は何と同じか、と形式の類比によってその本質に迫りたい。これは同時に人間活動の一切を脳機能の表出とみる『唯脳論』的な説明にも繋がる。

それは文字通り眠りから目覚めた、まさにその時であると考えられる。半覚半睡のぼんやりマナコ。頭はまだ半分夢の中で、しかし目覚めた以上五感の入力も処理しなければならない。つかの間訪れる、第一階層と第二階層の重なりあうこの瞬間。ここが意識の発生する余地となったと考える。

要するに人はこの瞬間を引き延ばし拡大してきたのだ。逆に言うと、人は実のところ瞬間的にしか覚醒しなくなっていったのである。人生の三分の一を寝て過ごし、後は殆ど寝ぼけマナコ。そしてふいに集中し一瞬動物的に目覚める。

それが人間の一生となった。

この『意識睡眠起源説』を別な角度から見ると、それは睡眠脳の覚醒世界への浸潤の話である。人間のこの生の形式は、イルカが殆ど起きていて寝るときには半分ずつしか眠らないという形式をとっていることと非常に対照的だ。人間は三分の一寝ていて、起きても殆ど半覚半睡でこれはイルカの睡眠時と同じ。要するに大部分睡眠脳によって生きていることになる。動物に身体能力において勝てないわけだ。
ともかくもこの睡眠脳が覚醒世界に浸潤した結果、そこでほどなくあるいは同時に「言語」というものも発生したと考えられる。
まず考えなければならないのは、脳→身体の因果関係である。

覚醒脳→身体を動かす
睡眠脳→身体を改造する

『睡眠肉体改造説』によるこの因果関係を信じるならば、覚醒世界に浸潤した睡眠脳は、その情報処理の結果をどこに向けて出力するのかが問題となる。もちろん脳の出力先は一先ず身体にしかないわけだが、しかし全睡している時のように身体を改造するわけにはいかない。そこは運動系としてすでに覚醒脳に使われているからだ。動かしながらその構造を変えるなんてことは不可能である。
言語は基本的に運動系によって出力される。話し言葉であろうが書き言葉であろうが、あるいはボディランゲージであろうが、身体を動かさなければそれは表出されえない。
しかしそれも構造的かつ能力的な問題に過ぎないかもしれない。最先端の科学技術では脳波を直接読み取って言語を表出できるという、一種のテレパシー能力が確立されつつあるからである。つまりはテレパシー能力があればそれでもいいわけで、言語が様々な形式によって表わされうる、特定の運動系によらない性質を持っていることは、極論すれば運動系によらなくてもよい、ということを示唆しているように思う。


さてオレは意識睡眠「起源」説を主張しているわけなので、意識の別名であるところの言語もまた睡眠にその起源があると考えている。
言語はただ表出されて終わりではない。それは光や空気の振動を通して他者の目や耳に受容され理解されなければ意味がない。それが変えているのは一先ず他人の行動およびその脳であると言える。
こういった言語の形式は睡眠時のいかなる機能に対応するか。
その対応を例えば脳下垂体の分泌する「成長ホルモン」にオレは見る。つまり成長ホルモンのアナロジーこそが言語である、と考えるのだ。
最初の言語とされる音声言語、しゃべり言葉で考えるなら対応関係はこうなる。
「発声の為の喉周辺」が「脳下垂体」に、「発声された音」が「成長ホルモン」に、「他者の耳」が「身体のホルモン受容体」に。



「世界」を変えるコトバ

かつて言葉には強大な呪術的力があった。
アフリカの原住民なんかなら今でも・・・なんて例を出すまでもなく日本はいまだ「言霊の幸はふ国」である。
太古に遡れば言葉は呪術そのものとなり「世界」に直接働きかけそれを動かすことができるものと信じられていた。
この原初の言語は、身体に対する成長ホルモンと同じ作用があったようにオレには見える。まぁホントは成長ホルモン以外にも色々あるはずなんだけど、一先ずそれでもって原初の言語発達のストーリーを想像してみよう。


始めに(成長ホルモンのアナロジーとしての)言葉を発したのは女、それもおそらく母親だ。母親が子供に向けて発した。それは大体こういう経緯による。
意識の拡大は同時に大脳新皮質の拡大をもたらし、それは頭の大きくなった子供の早産化を招いた。人間の子供はいわば未熟児として生まれるようになったため、一人では何もできず教育の必要性が生じた。つまりそれまではあらかじめソフトの入った状態で生まれてくるので親は「ソフトの使い方」を教えればよかったのが、殆どソフトの入っていない状態で生まれてくる子供に親はソフトの入力をしなければならなくなったわけだ。人間は人間に生まれてくるのではない。人間になるのだ、というあれである。ちょっと違うが。
ともかくそこで後天的な成長の促進、方向づけを行うための「褒め言葉」や「叱り言葉」のようなものが発生してきたのではないかと思われる。


昔サボテンは褒めて育てると元気に育つというようなオカルトが流行ったが、サボテンならいざ知らず言葉を解する人間ならそれが精神面のみならず肉体にまで影響を及ぼすだろうことは想像に難くない。特に子供にとっての母親の言葉ならなおのこと。
言語から呪術的効果が薄まった現代でさえそれぐらいの力はある。
原初においてそれがどれほどの効果を及ぼしたか。




言語は「世界」に直接働きかけそれを変化させ改造できる。
誰にとっての「世界」か。 
多分子供にとっての世界である。
それは一つの奇跡に近いものがあったのだと思う。


過去の私から現在の私へのメッセージ

もし言葉がそれを聞いたものの肉体的形質にまで影響するものであることを認めるならば、これはもはや単なるアナロジーとは言えない。なぜならそれは言語による他者の脳下垂体のコントロールの可能性を示唆しているからだ。そういった価値を持つ言語とは、外に出た成長ホルモンそのものと言っていい。
同時にそれが外に出たことは、睡眠脳による覚醒世界の「身体化」を意味する。
覚醒世界における実際の身体は動かしえても変化させられない。よって「睡眠脳による情報処理の結果」を身体によって外に出力したのが言語である、としてそれが外に出力されるということは睡眠脳にとって「そこ」が身体であると認識されているということである。これはいわゆる「道具は身体の延長」説へのまた別な説明になっているように思う。
そういうわけで「睡眠時において脳から身体に向けて出力する機構全般」を言語の起源として考えてみた。ここでは成長ホルモンで語ったが、これは多分その機構全体の一端なのだろうと思われる。


さて原初の言語であるしゃべり言葉については、もう一つ重要なポイントがあるのでそれについても書いておきたい。
自分の発した声は自分の耳でも聞く。骨伝導として伝わったものも聞く。このフィードバックについて。
言語が睡眠起源というのは、覚醒時の半睡脳から出力されているということであるが、それはそのまま五感として再入力される。つまり半睡脳から半覚脳へと伝わってもいるわけである。
このことは「記憶によって構成される過去の私」から「五感によって構成される現在の私」への語りかけ、とも見ることができる。
この内部で成立している小さな循環の輪。
この輪を外に少し押し広げると親(過去の私)から子供(現在の私)という輪が成り立つようにオレには思えるのである。



再びイルカに意識はあるか

ちなみに『唯脳論』において養老先生が提示したヒトにおける言語発生の条件は「視聴覚の連合」というようなものである。詳細は読んでもらうとして、要は二つの本来関係のないはずの知覚の連合に言語の成立を見ているわけで、ここでは視覚と聴覚の代わりに覚醒と睡眠を置いてみたわけなのだ。
正否はともかくも一つの見方は提示できたように思うので、ここで改めてイルカの意識について考えてみたい。どうもイルカは人間を考える上で非常に重要な形式を持った生物のように思われるので。
人間が覚醒世界へ睡眠脳を持ちこんだのに対し、イルカは逆に睡眠世界へ覚醒脳を持ちこんでいる。半球睡眠というのはちょっと間違った命名で、進化的経緯としてはイルカは本来ぐっすりと眠っていたはずの時間帯に半分覚醒したまま入っていったわけだ。つまり半球覚醒と言う方が正しい。
従って仮にイルカに意識に近いものがあったとしても、それは人間のものとはあきらかに違う、間逆の方向性を持ったものであると想像できる。
だが睡眠世界への覚醒脳の持ち込みというこの形式。
オレには身に覚えがある。
人間にとっては一種の障害、エラーぐらいにしか認識されていないけども、これは明晰夢と同じ形式なのである。かつては「幽体離脱」とも言われていたこの経験は、ひょっとするとイルカにおける意識がどういうものかを理解するための足がかりになるかもしれない。


いったいイルカはそこで何を見るのか。いや「聞いて」いるのだろうか?
この問いはおそらく次の疑問と並行をなす。
遠い昔、イルカの祖先は何を思ってまた海へと潜っていたのか?と。

(2)睡眠肉体改造説

ここで重要なことはふたつある。ひとつは、デフォルト・ネットワークへの言及だ。われわれは、いとも簡単に夢想に陥ることから、夢想は思考の「デフォルト・モード」だと考えられる。そしてもうひとつは、実行とデフォルトの両領域が同時に活性化したことだ。これは、夢想というものが、これまで考えられてきたほど「無心」の状態ではない可能性を示唆している。夢想は、睡眠時の夢と、覚醒した意識の中間にある、境界的な空間に存在しているようなのだ。それは、起きてはいるが、十分に現在に焦点をあててはいないような空間だ。

「とりとめのない夢想」と創造性|WIRED.jp

いやびっくりした。
『意識睡眠起源説』を書いてほどなくこんな記事がアップされるとは。解釈こそちょっと違うものの、殆ど同じ話じゃないかと。

1)夢の外へ

この世は夢、だが夢ならぬ外の世界があり、そこへと目覚めていく。

〜中略〜

2)夢の中へ

この世は夢、ならば、さらにその内へと、いわば夢中にのめり込んでいく。

〜中略〜

3)夢と現のあわいへ

この世は夢か現か、その「ありてなき」がごとき生をそれとして生きようとする。

http://kousyoublog.jp/?eid=1454

もう一つ。これもある意味同じ話だと思われる。「無我夢中」って表現を何気なく使ってハッとしたんだけど、この形容には『意識睡眠起源説』的世界観が内包されている。なぜに昔の人は何か物事に集中している人を指してこんな形容をしたのか。理屈はともかく、つまりは昔の日本人はそういう世界を生きていたのだろう。
結局これは科学の話でもあるのかもしれないが、同時に日本語に含まれる日本人の世界観の説明とも捉えられる。最先端の科学的知見が、昔ながらの日本人の世界観の正しさをあるいは証明するのだとしたら、こんなに面白いことはない。


ともかくも科学的考証が思いがけずついてきたので、話を次に進めたい。
つらつら考えてみるに、この話は三つで一つの話になりそうなので。



夢見る脳は身体を作る

まず二つ前提を置く。

  • 脳は情報処理器官である
  • 脳の情報処理の結果の出力先は身体である

この二つの前提から「生物における睡眠とは何か」について考えてみたい。
起きている時と寝ている時で脳の消費エネルギーが変わらないことから、睡眠時の脳が決して休んでいるわけでなく、また別な活動をしていることは分かった。
では身体は睡眠時に休んでいるのか、と言えばどうもこれもただ休んでいるという訳でもない。
まず成長期においては、成長ホルモンというのが睡眠時に分泌される。寝る子は育つ、というが寝なければ子は育たない。
あるいは一晩寝ると出る筋肉痛。オレはもう二日後に出る年になってしまったが、あれも要するに痛んだ筋肉が寝てる間に超回復して、筋肉が増強されたその結果だ。
つまり身体にとって睡眠とは構造自体の成長ないし改造がなされる期間であるということが言える。
このことから以下の因果関係が思い浮かぶのはごく自然なことだと思う。

  • 覚醒脳→身体を動かす
  • 睡眠脳→身体を改造する

矢印は脳の情報処理の結果のアウトプットを意味する。
つまり覚醒時の情報処理の結果は身体を動かすことで表出され、睡眠時の情報処理の表出は身体を作り変えることにあるのではないか、ということだ。
睡眠時の脳に覚醒時に匹敵するほどの活動が認められる以上、その「情報処理の結果」はどこかに出力されなければおかしい。もちろん脳も身体の内であり、一口に脳といってもそれは様々な器官からなっているわけなので「脳から脳へ」という出力であっても問題はない。
ただ脳が睡眠時に扱える主な情報とは基本的には記憶である。起きていた時の記憶を使っていったい脳は何がしたいのか。それが環境へ適応するための身体の改造である、と考えるのもまた自然な発想だろう。
その為なればこその活発な脳の活動。
これが「睡眠時の膨大なエネルギー消費」の最も無理のない説明になるのではないかなと。


その証拠は今のところない。ただし睡眠時にしか分泌されない「成長ホルモン」は極めて示唆的である。

下垂体(かすいたい)または脳下垂体(のうかすいたい)とは、脊椎動物の体に存在する器官のひとつで、多くのホルモンを分泌する内分泌器官。脳に接して、脳の直下(腹側)に存在し、脳の一部がのびてぶら下がっているように見えることからこの名がある。

脳下垂体 - Wikipedia

脳に直接接続しているこの下垂体は、神経系とはまた別な脳の出力を担う器官、と考えて問題ないように思われる。



内因的進化論への飛翔

しかしこう考えてくるといったい生物において「休んでいる」なんて状態があるのかという気がしてくる。それは人間が二重構造の意識、半覚半睡という脳に負担の掛かる無茶をしていることからくる一種の錯覚なんじゃないか。
脳も身体も覚醒睡眠どちらにおいても、それぞれに色々な事をしており生命とはこういう形式で現実を生きているのだと思う。


さて、もし今後睡眠時の脳と身体の改造との因果関係が明白になるようなことがあるとすれば、それはいかなる価値を持つだろうか。
それはひょっとすると、遺伝子と自然選択が全てを決定しているとする外因的な進化論に付け加えるべき、内因的進化論への地平を開くかもしれない。
ダーウィニズムによって「チョウチンアンコウ」みたいな奇妙奇天烈な生物が出来上がるなんて、誰も本気で信じてはいないのではないか。それだけではどうしても納得できない、いわば狂ったような形態を生物は時折見せる。あの狂気が実は睡眠時の「夢」を由来としているものだ、と説明されたなら少なくともオレは納得するだろう。


昆虫におけるサナギという形態は睡眠のアナロジーだ。サナギとなってしまえば感覚器によって環境の情報を得ることは無意味になるが、ここで蝶は、というより芋虫は、徹底的に肉体を改造し蝶となって空へ羽ばたく。
有名な『胡蝶の夢』の寓話が蝶をモチーフに選んだのは決して偶然ではない。
蝶はサナギの時いったい何を見ているんだろうか。『ドグラマグラ』における胎児のような夢をひょっとしたら見ているのかもしれない。
蝶にとって芋虫とサナギと蝶とどれが現実かは蝶にしか分からないが、あるいは蝶にだって分からないかもしれない。

意識睡眠起源説

というのを提起したいと思う。
最近改めて『唯脳論』を読み返しているのだけど、忘れているところ、かつて読み飛ばしていたところなどがたくさんあって、新鮮で面白い。
以下いちいち断らないが、主に『唯脳論』他養老先生の著作の知見が基になっている話であります。


そもそもは『唯脳論』において「睡眠」にさかれている章が少ないな、と思ったことがきっかけ。睡眠は人生の三分の一を締める脳の状態だ。そこまでとはいかなくとも、もっと多く語られなければならないことがあるはずではないのか。それができないのは睡眠時の脳がまだ科学的によく理解されていないからなんだろう。


養老先生は何度も繰り返し、しつこく言う。意識および脳をそんな高級なものだと思うな。脳に騙されるな、と。



自意識を構成する二つの階層

人間が起きている時の「自分が何をしているのかを知っている私」という自意識は、一先ず二つの階層があれば成り立つ。
第一の層は五感から入力される膨大な情報を処理し、運動系へと出力する知覚の層。ここまでは動物とほぼ一致する状態。
そして人間のみに成立しているとされる第二階層、入出力をしている状態を眺めつつ「何でオレはこんなことしているんだろう」とまったく関係のないことを考える、つまり今現在の入力情報とは別な、関係のない情報の処理、をしている状態。
二つの階層があり、かつ第二階層が第一階層を把握している、というのが人間が起きている時の「意識」である。
そしてこの第二階層の成立とそれによる把握を、人間のみに発生する神妙不可思議な独自の状態だ、と我々は普通考えている。


しかしよくよく考えてみると、二つの階層自体は人間以外の動物も持っている。少なくとも眠る動物であるならば。
生物が眠っている状態とされるそれは、要するに五感からの入出力を脳が殆ど行っていない状態のことである。それは脳が休んでいるのだ、と言う素朴な実感は、現在科学的に否定されている。脳におけるエネルギー消費は覚醒時と睡眠時とで殆ど変わらないことが分かったからである。
そこでは覚醒時の、あの膨大な情報の入出力に匹敵する何かが行われている。何が行われているにせよ、そこが脳である以上、行われているのが「情報処理」であるのは間違いないだろう。
そしてそれは要するに「今現在の入力情報とは別な、関係のない情報の処理をしている状態」なのであり、動物もまた二つの階層を行き来している、と考えられる。



覚醒と睡眠

人は人生の三分の一を、寝て過ごす。三分の二は起きているわけだが、常に自意識を持っているというわけでもない。時々人は、起きていながら「我を忘れる」。何か物事に極度に集中した時だ。時はあっという間に過ぎる。
人間が極度に集中する時というのは、例えば五感を介しての今現在の情報の入出力に集中した時だ。モノづくりをしている人、スポーツをする人などによく起こる。試合に集中したボクサーは、しばしば試合のことを覚えていない。
あるいは逆に五感の入出力をまったく忘れてしまう集中というのもある。自分が何を見ているか、聞いているかまったく認識のない、あるいは意味をなさなくなる集中。深く考え事をする人、思い悩む人にそれは起こる。
彼らもしばしば考えている私、悩んでいる私、という認識はない。そんなことはないという人もいるかもしれないけど、それはその人が、深く考えたことも思い悩んだこともないからだと思う。「エウレーカ!」と叫びながら裸で駆けたアルキメデスに、そんなものがあったとはとても思えない。あったとしてもそれは「考えていた私」であり、すでに過去となっているものでしかないだろう。


いずれにせよ、人の覚醒時においても二つの階層が「同時的に」成立しなければ自意識は成立しない。どちらか一方の階層に偏ると人は我を忘れてしまう。
第一階層に偏った時のそれは、人間以外の動物の覚醒時に一致する。
では第二階層に偏ると?
それは動物における睡眠時に極めて近い。人間が深く考えたり思い悩む時に、身体をそんなに動かしてるわけがない。アルキメデスは風呂に入っていた。身体を休めている時であったのは必然である。
つまり人間において「自意識を持っている」という独自の状態を、人間以外の動物における「覚醒時」と「睡眠時」が脳において同時的に成立している状態、と見なすのが『意識睡眠起源説』のその骨子となる。


人は一種の「まどろみ」を生きている。
そう考えることによって、意識を巡る様々な疑問を無理なく説明できるように思う。
そもそも人はいつ意識に目覚めたか。
それは文字通り眠りから目覚めた、まさにその時であると考えられる。半覚半睡のぼんやりマナコ。頭はまだ半分夢の中で、しかし目覚めた以上五感の入力も処理しなければならない。つかの間訪れる、第一階層と第二階層の重なりあうこの瞬間。ここが意識の発生する余地となったと考える。
要するに人はこの瞬間を引き延ばし拡大してきたのだ。逆に言うと、人は実のところ瞬間的にしか覚醒しなくなっていったのである。人生の三分の一を寝て過ごし、後は殆ど寝ぼけマナコ。そしてふいに集中し一瞬動物的に目覚める。
それが人間の一生となった。



イルカに意識はあるか

欧米人の偏見だとばっかり思っていたこれにも、なるほど根拠はあった。
イルカが示す不思議な習性。イルカは右脳と左脳を交互に眠らせることができる。

頭頂部に呼吸のための独立した噴気孔をもち、そこから肺呼吸する。呼吸の周期はおよそ40秒である。 イルカは一度も泳ぐのをやめず息継ぎもきちんとしながら常に泳ぎ続けている事から、かつてはイルカは全く眠らないのではないかと言われていた。しかし、イルカは右の脳と左の脳を交互に眠らせる事(半球睡眠)ができる特殊な能力があることが分かってきており、眠らないという説は現在ではあまり有力ではない。目をつむってから息をするまでの約一分間×300回〜400回が一日の睡眠時間であり、一定方向に回転しながら眠ることが知られている。この回転方向は北半球のイルカは反時計回り、南半球のイルカは時計回りに回ると報告されている。ちなみに、右の脳が眠っている時は反対の左目を、逆に左の脳が眠っているときは右目をつむりながら泳ぐ。

イルカ - Wikipedia

『意識睡眠起源説』による意識の発生の前提、「第一階層(覚醒)と第二階層(睡眠)の脳における同時的成立」をまさにイルカは満たしている。従ってイルカに人間に近い自意識がある可能性は極めて高い。つまり起きて現実(今)の情報処理をしている右脳に、眠っている左脳が気づいている可能性だ。
もっとも「第一階層(覚醒)と第二階層(睡眠)の脳における同時的成立」は必要条件であって充分条件ではないから、必ず自意識が発生するわけではない。特にイルカでは、短くかつ左右反転してしまうので気づくだけの時間的余裕があるのかどうか。だけどまぁあっても不思議ではないと思う。
しかし仮にあったとしても、それは我々が普通考えるところのイルカが起きている時、ではないことが分かるだろう。イルカにおける自意識は我々が寝ていると見なすその時にこそ、発生の余地がある。
ところでイルカの示すこの半球睡眠。群れをなす鳥類でも確認されているらしい。
なるほど頭がいいと言えばカラスだ。昔住んでいたところで、朝方よくカラスが鳴いていてうるさかった。寝ぼけマナコで聞いているに、どうも会話しているように思えてしょうがなかった。カラスにはちょっと怖いところが確かにある。


以上のことから人間に近い自意識があるか、あるいは今後発生する可能性が高いのは、人間に近い猿よりも半球睡眠を持つイルカや鳥類であることが予想される。
そしてもう一つ。
イルカや鳥類の示す半球睡眠が発見されたのは、それが右脳と左脳に局在的に起こっている現象だからである。解剖学的にはっきりと分かれている器官に、別々に起こっている、からこそそれは容易に理解でき発見できた。しかし人間におけるそれはそう単純ではなく、脳にいわば偏在的に起こっていると考えられる。だから未だにそれが発見されず、理解されない。
しかしイルカや鳥類の存在は、覚醒と睡眠が生物の脳において同時的に起こりうる現象だ、ということを証明している。




ではヒトにおいてそれがどうようにして可能になったか。それはおそらく脳の拡大、大脳新皮質の拡大と無関係ではないだろう。我々が半覚半睡の期間を拡大していく過程は、同時に脳の容量の拡大を伴わなければ不可能である。五感による膨大な情報の入出力をしながら、また別な情報処理を行うのに容量が必要なことは容易に想像できる。



今の私に出会う過去の私

第一階層(覚醒)と第二階層(睡眠)の同時的成立。
それは確かに同時であるはずだ。しかしそこにはある種の「時間差」が存在する。
第二階層の睡眠時の情報処理とは、つまるところ起きていた時に入出力した情報の「記憶」である。現在からの入出力が殆どない以上、脳は記憶という過去の情報を処理するほかない。
一方、人は覚醒時と睡眠時とでエネルギー消費がほとんど変わらないという。
以上のことは次の式で表わされると思う。

  • ヒトの覚醒時(半覚醒+半睡眠)=ヒトの睡眠時

この式は実は「ヒトにおける睡眠時間がなぜ人生の三分の一か」の答えになっているように思うのだが。。。


それはともかくヒトの意識において時間差の問題は非常に重要であると思う。
「自分が何をしているかを認識している私」の私とは過去の私である。過去の私が現在の私に出会っている、というのが人間の意識のあり方だ。
過去の私とは何か。記憶を司るという「海馬」の情報を主に参照している脳(おそらくは大脳新皮質)のことである。
今の私とはつまり、五感からくる情報を主に参照している脳。
ヒトにおける半覚半睡の偏在は多分このようにして存在しているのだと考える。どちらを参照しているか、は外からは中々分からない。どちらにせよそれは同じ大脳が行っていることだからだ。ミクロにはシナプスの興奮として観察することはできる。しかし何がそれを興奮させるに至ったか、の理解は極めて難しい。


一先ず『意識睡眠起源説』は半覚半睡をこのように定義する。

  1. 半覚=五感の参照
  2. 半睡=海馬の参照


我々の全睡ともいうべき三分の一の睡眠には、三分の二がいわば凝縮されている。普通、夢は覚えていない。人は文字通り「無我夢中」で夢を見るからだろう。
そこで起こっていることは未だ大きな謎である。おれはそここそが意識の起源、その故郷であると考えるのだが、さてどうだろうか。
人間の意識はちっとも高級なものではなく、要素に分解すれば動物となんら変わるところがないのではないか、と思う。


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今おれはパソコンでこれを書いている。さっき突然「Adobe Flash Player」の更新画面が勝手に立ちあがった。パソコンに今、情報の入力を行っているのはおれである。こいつもまた関係のない、別な事を裏でしているわけだ。


(2)睡眠肉体改造説 - ぶろしき

表現の目的化

強い動機を持った表現活動には、その人の心にある抑圧を解放し、精神を健全に保つ機能があると思う。
その表現活動が人になんらかの感動を与えるものであるとしたら、それはその抑圧が他の人にも存在していて、抑圧からの解放を疑似体験することができるからだ。


表現活動を通して心への圧力は弱くなるため、基本的には「表現する動機」も弱まりいずれは失われていく。
しかしある種の人々にとっての表現活動は、やればやるほど抑圧は解放されるどころか強まり、ひいては精神の健全さを失わせていく結果になることもある。


その原因の一つはやはり、表現活動が商売になるうる、ということにあるんだろう。その場合食っていくため、ないし食えるようになるため、表現し続けねばならず抑圧を次々作りだしていかなければならない。
精神を健全に保つという目的は失われ、手段であったはずの表現活動が目的化してしまう。


まったくもってバカバカしい、とも言える。
一方そうした原因がなかったとしても、「手段の目的化」というのは人間の根本的な性質とも言えるわけで、実にすばらしく人間的な成り行きである。
元々は単なる生理現象なわけだから。圧力で出る、っていうのは要するにウンコだから。そこに快感を見出してこその人間。


そこでまぁ終わってもいいけど、しかしそこからさらにもう一回ひっくり返って、心を無にして聞きたいアンパンマンのマーチ

http://www.youtube.com/watch?v=BUGh-7Y5kZA

山寺のある風景

山形県山形市立石寺という寺がある。
通称山寺。芭蕉の「静けさや岩にしみいる蝉の声」の句で有名だ。
観光名所だから、という軽い気持ちで行ったことがあるのだけど、とてもすばらしい場所だった。
長い石段を登っていく。岩山のあちこちに色々な信仰の跡があるが、そのどれも自然に溶け込んでいる。あるいは古い信仰はおれには自然と見分けがつかない。切り立った岩の中途とかよくぞそんなところに、というような場所に何か建っていたりする。歴史ある寺なのである。
不思議な景観を楽しみながらいよいよ奥の院に到着。
そこに軽い気持ちで、予備知識なく訪れた観光客をギョッとさせるあれがあったのだった。
後で調べて分かったが「ムサカリ絵馬」というらしい。
http://www41.tok2.com/home/kanihei5/mogamimukasari.html
実に感動的で物悲しく神妙な心持にさせられる。
「婚礼人形」を靖国神社で見たことがあったが、あれも東北の古い信仰が由来となっていたのだった。
人形は女ばかり。場所は農村部の東北。「息子」にかける母親の情熱は尋常ではない。(愛しのアイリーン
この信仰は現代もなお生きている。
それなら、現代の親たちが未婚で先立ったオタクの息子の為に、彼の好きだったフィギュアを奉納する日も、そう遠くないかもしれない。


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ここはたしかに一つの聖地である。
人工的なはずの建物が自然と奇妙に融合している。死者の魂が集まる山、というのは日本の一般的な古い信仰だが、ここはいかにも舞台としてふさわしい。人工と自然の融合する場が死者=虚構と生者=現実の邂逅する場になる必然。
死者は人における虚構の原点だ。
切って無くなったはずの足が痛む。「幻肢」と呼ばれる現象は、実体としての足が無くなっても、脳にそれに対応した神経回路が残る為に起こる。
我々が死者を「幻視」するのも同じ理屈によっているのだろう。親しい人であればあるほどそれは残る。実体がないことの方が、むしろ不思議でならない。


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輪廻転生は男の世界観だ。
男の一生は子宮から出で成人し子宮へ向かって突き進んでいくもの。
循環する世界を生きている。
女はどうか。
伊藤潤二の『富江』に男から見た女の生の異質性が描かれている。
すなわち無限の増殖。あるいは永遠の同心円構造。
それが女のあり方なのだ。


釈迦における悟りとは輪廻転生する世界からの離脱だった。全てのものに仏性があるのに、たいして変わらない女が悟れないとされるのは、そもそも女は輪廻転生する世界を生きていないからだ。悟る必然性を欠く。すでに悟っているとも言える。


翻って日本が「女ならでは夜が明けぬ」という女性原理によっている国であることはやっかいな問題である。
我々には釈迦とはまた別な悟りが必要とされる。
釈迦の後、56億7千万年後に顕れるとされる弥勒菩薩は、多分、女であると思う。


一先ず終わり。



大東亜共栄圏再び
脳の中の幽霊